あやつり糸の世界横田

(C)1973 WDR (C)2010 Rainer Werner Fassbinder Foundation der restaurierten Fassung

『あやつり糸の世界』(原題Welt Am Draht/ World on A Wire)制作年:1973年/ 制作国:西ドイツ/ 本編尺: 第1部105分、 第2部107分監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー Rainer Werner Fassbinder/脚本:フリッツ・ミュラー=シェルツ Fritz Müller-Scherz、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー Rainer Werner Fassbinder/ ダニエル・F・ガロイの小説『模造世界(原題:シミュラクロン3)』に基づく Daniel F. Galouye "Simulacron-3"/キャスト:クラウス・レービッチェ:フレッド・シュティラー博士/マーシャ・ラベン:エヴァ・フォルマー /カール=ハインツ・フォスゲラウ: ヘルベルト・ジスキンス所長/ アドリアン・ホーフェン:ヘンリー・フォルマー教授 /バルバラ・バレンティン:グロリア・フロム 他

『あやつり糸の世界』--凝らない、質素な映像によるSF映画の佳作

         横田 安正

はじめに
ドイツの映画監督ラーナー・ヴェルナー・ファスビンダーが1973年、28歳で作ったTV用作品である。全編16mmフィルムで撮影された。この監督は物語を映像で語る人ではないようだ。ダニエル・F・ガロイが1964年に発表した小説『模造世界』をそのまま映像に変換した、(いわば小説を解説した)作品に見える。第1部と第2部をあわせて4時間近い長尺だが、この傾向は特に第1部で顕著である。ストーリーは登場人物の会話で進むのでかなり退屈である。観客にとって、会話がダラダラと続くのを見るほど辛いものはない。第1部が会話劇なのに対し、第2部は1転、アクション活劇になるので、やっと映画を見た気にさせてくれる。もし監督が「第1部をわざと退屈にして、第2部のカタルシス感を増そうとした」とすれば、ずいぶん観客をバカにしたものであるが、多分そうではなく、監督は一貫して真面目に撮ったのであろう!?・・・。何はともあれ、この内容の映画であれば、2時間で充分であると思わざるを得ない。

ライナ ー・ヴェルナー・ファスビンダー  (Rainer Werner Fassbinder)監督

ストーリー(第1部)
未来研究所では、仮想世界を作り出し未来社会を厳密に予測できる「シミュラクロン」の開発が進められていた。世論調査をしなくても20年先の人間の行動が分かるというもので、鉄鋼会社「ユナイテッド・スティール」の資金援助を受けている。仮想社会にはすでに1万人の個体が住んでいるという。ある日、研究主任のフォルマー教授が謎の死を遂げ、主人公シュティラー教授が後任に就く。するとシュティラーも研究所で奇妙な事態に遭遇する。保安課長ラウゼが忽然と彼の目前で姿を消し、エーデルケルンという別の人物が依然から保安課長だったとされているのだ。やがてシュティラーは自らシミュラクロンによって仮想世界に入り込む実験を行うが、そこでシュティラーは消えたラウゼの姿を見かける。

シュティラーの心に芽生えたのは彼自身がフォルマーやラウゼの二の舞いになるのではないかという恐怖であり、所長ジスキンスに操られているのではないかという疑惑である。自意識過剰で自信家でもあるシュティラーはジスキンスにだけは負けたくないという自負心があった。しかし、突然ジスキンスの美人秘書が彼の秘書として移動してくる。彼の監視役らしい。猜疑心と恐怖のため頭痛に苦しみ、酒浸りの毎日が続く。ただ1つの希望は亡くなったフォルマー教授の美しい娘エヴァに対する恋心である。現実社会に対し、下層の仮想社会にはコンタクトと呼ばれる連絡役がいた。シュティラーが作った連絡個体アインシュタインはある日、現実社会に移住したいと言い出す。シュティラーに殴り倒されたアインシュタインは「この世界は現実社会ではなくもう1つ上層の現実社会があるんだ。貴方がいるのは中層の仮想社会、貴方自身も仮想の個体にすぎない」と言って嘲笑する。「嘘であってくれ」という悲痛なシュティラーの呟きで第1話は終わる。

ストーリー(第2部)
 シュティラーの疑惑は確信に変わった。 この世界が中層の仮想社会なら上層に連絡するコンタクト個体がいるはずだ。それは誰なのか?同僚のフランツ・ハーンを疑ったが、彼は未来研究所の情報を雑誌社にリークしている人間であった。2人は “知りすぎた男” として保安部から狙われる。迫ってくる保安部の要人と警察を逃れるため車で逃げるが、ハーンは途中で謎の自殺を遂げる。そしてシュティラーはハーン殺しの汚名を着せられ、官憲の追跡は更に厳しさを増す。ここから、逃げる主人公と追う側の攻防戦となって行く。逃げ込んだキャバレーではディートリッヒに似た女が「リリー・マルレーン」を唄い、ナチらしき軍隊が行進している。彼は自分の山小屋に逃げ込むが、そこで愛するエヴァと再会する。無実を主張する彼に女は「貴方の助けになりたい。愛している」と告白するが、不信感から彼女を追い出してしまう。その後、辿り着いた高級ホテルで彼は再びエヴァに会う。そこで彼女は上層社会から降りてきたスパイ人間で、上層部はもはや連絡個体を必要としなくなったことを打ち明ける。上層部はシュティラーをわざと殺さず、悩み、苦しむのを楽しんでいると語る。そして、存在を消されかけているシュティラーを助ける術があると言う。しかし、彼女に支配されることを嫌った彼は破れかぶれで部屋を出、未来研究所に乗り込むが、そこで待ち構えていた警官隊に無残に撃ち殺されてしまう。しかし、倒れこんだのはエヴァの部屋であった。五体満足である。「死ぬ寸前、貴方の心を切り替えたのよ」とエヴァは言う。そこは上層社会なのか?惨殺されたシュティラーの死体と愛を交わすシュティラーとエヴァの映像のカットバックが続いて映画は終わる。

あれこ
 この映画の第1の特徴は映像に凝らないことである。基本的にホーム・ドラマと変わらない。CGのない時代のSF映画はセットと照明に凝ったものが多いが、この映画では特にそういう気遣いはなされていない。日常のなかの恐怖を示すため意図的にそうしたのか、予算上そうなったのかは図り知れないが、多分その両方なのであろう。唯一やったことは鏡を使用したり、電話機の色を原色にしたくらいである。鏡をあちこちに置いて移動撮影を行えば映像が多層的になるのは当たり前である。余りにもこれ見よがしの映像で、残念ながら形而上的な意味を持つには至っていない。いわば子供騙しである。その代わり、ファスビンダー監督は若者らしく、それ以上目眩ましの映像といった変化球は使わず直球勝負で攻めている。技術的には決して高いものではないが、それはそれで潔い。登場人物の熱演もあって、第2部にかんする限り、退屈はさせない。

主人公を演ずるクアウス・ヴィーヴィッチェはちょっと風変わりな役者である。精神的に追い込まれ、ノイローゼ寸前の役を熱演しながら変なユーモアがある。彼は背が低い。登場人物のなかでは男性はもとより、女性の誰よりも短躯である。それを埋め合わせるかのように、理由もないのに筋肉隆々の裸をやたらと見せたがる。煙突のようにタバコを吹かし、酒をがぶ飲みする主人公には相応しくない肉体美である。これは監督の演出というよりは役者エゴなのかもしれない。また逃げるときも、高い金網をスタント無しのワンカメ・ショットで4箇所も軽業師のようによじ登っては飛び降りて見せた。全く変に肉体派なのである。また登場する研究所の女たちは何故かコテコテの厚化粧で意味もなく胸をはだけている。これは明らかに監督の意匠なのであろう。

この映画をキューブリックの『2001年の旅』やタルコフスキーの『惑星ソラレス』に比する人が多いが、それは見当違いであろう。映画とテレビの違いはもとより、宇宙的なスケール感、存在にたいする身を切るような痛みの感覚、映画作家の個人的な思い入れ、センチメンタリズム、そうした諸要素が全く違うからである。しかし、映画のランクをA,B,C,Dの4つに分けたとしたら、『あやつり糸の世界』は、欠点も多いが、充分Bに入る作品である。筆者は「凝らない、質素な映像によるSF映画の佳作」と呼びたい。

©2016 A. Yokota. All Rights Reserved. 1 July 2016.

(C)1973 WDR (C)2010 Rainer Werner Fassbinder Foundation der restaurierten Fassung

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