ブラック・ブレッド

Movie Awards :
2012年アカデミー賞外国語部門スペイン代表
2011年ゴヤ賞(スペイン・アカデミー賞)9部門受賞
2011年ガウディ賞13部門受賞方タル-ニャアカデミー賞
2011年サン・ジョルディ賞観客賞受賞
2011年Turia賞スペイン(カタルーニャ)での賞スペイン映画賞受賞
2010年サン・セバスチャン国際映画祭主演女優賞(ノラ・ナパス)
2011年スペイン映画脚本家協会賞2部門ノミネート

『ブラック・ブレッド』(Black Bread, Pa negre

監督:アグスティ・ビリャロンガ(英語版)
脚本:アグスティ・ビリャロンガ
原作:エミリ・テシドール(スペイン語版)
製作:イソナ・パソーラ
出演者:フランセスク・コロメール(アンドレウ)
ロジェール・カサマジョール(父ファリオ)
ノラ・ナバス(母フロレンシア)、マリナ・コマス(従妹ヌリア)、 
製作会社:Massa d'Or Produccions, Televisió de Catalunya (TV3)
配給: Savor Alfama Films, アルシネテラン
公開: 2010年10月15日(スペイン)/ 2011年8月24日(フランス)/
2012年6月23日(日本)
上映時間:108分
製作国: スペイン、フランス
言語:カタルーニャ語、スペイン語
DVD販売元:松竹
公式HP:http://www.alcine-terran.com/blackbread/


『ブラック・ブレッド』ーー少年が見た暗い森

              清水 純子

『ブラック・ブレッド』(Black Bread ,2010) は、2011年度スペイン最高の映画賞ゴヤ賞9部門を制覇した社会派ミステリー映画である。
監督はアグスティ・ビリャロンガだが、ペドロ・アルモドバル監督の『私が、生きる肌』を押さえて圧勝したこともうなずける佳作である。

映画の設定の時代は1940年代フランコ政権下、場所はスペインのカタルーニャ地方の貧農である。映画は暗い森から始まる。
馬車の車輪を見に降りた男の背後から、頭巾を被った男が忍びより、石で頭を砕く。頭巾の男は死体を馬車の幌に突っ込むが、中には少年がいた。
目隠しをされた馬は、崖縁で前足を折られ、もんどりうって馬車ごとはるか下へと落ちる。殺されたのは村の男のディオニソスと息子のクレットだった。
現場に居合わせた11歳の少年アンドレウに瀕死のクレットがつぶやいた言葉は「ビトリウア」(森の洞穴の怪物)。アンドレウの父ファリオは左翼の活動家であるために、警察から睨まれてディオニソス殺しの汚名を着せられる。
失職中の夫に代わって生計を支える元美女の母フロレンシアは、農場主のマヌベンス夫人に夫の命乞いに出かける。
アンドレウは、母に昔言い寄っていた町長に乳房をもまれ、パンティを引きずりおろされるのを扉越しにみつめる。
しかし母の尽力の甲斐なく、父ファリオは投獄され、処刑される。
アンドレウは、知的で理想主義者の父を深く尊敬していたが、生活に困った父がマヌベンス夫人の依頼で殺人を犯したことを知り、やり場のない怒りに身を震わせる。
さらに父はディオニソスとともに、マヌベンス夫人の弟と同性愛の関係にあった美青年マルセル(ピトルリウア)を、夫人に頼まれて森の洞窟で豚と同じ方法で去勢したことを知る。
理想主義者の仮面をつけて実は嘘でかためた父をアンドレウは軽蔑するが、父の命がけの取引によってアンドレウは、富豪のマヌベンス家の養子に迎えられる。
医者志望の頭脳明晰なアンドレウは、父の思いを母から知らされて秘かに涙ぐむが、面会に来た母を「荷物を届けに来た人さ」と冷徹に言いきって、
貧しく惨めで暗い過去を断ち切る。

「ブラック・ブレッド」とは「黒パン」のことである。
「黒パン」は貧しい家の者が食べ、「白いパン」は豊かな家で食される。
昔日本でも、富裕層の主食が白米だったのに対して、貧しい農民はヒエ、アワ、キビなどの雑穀を食べていたことから「黒パン」の象徴する意味が理解できる。
「黒パン」しか食べられないアンドレウ少年が、マヌベンス家の台所でおやつに白いパンとホットチョコレートを与えられて、目を輝かせ、顔をほころばせる場面によって、所属する階級と経済的力の格差が食べ物によって物語られる。

映画『ブラック・ブレッド』は、一言で言うならば、「黒パン」から「白いパン」の階級へ上昇する少年の物語である。第二次大戦中のフランコ政権下で物心両面で抑圧され苦しめられていた少年アンドレウが、心ならずも保身のために無垢と正義感を捨てておとなの世界の虚偽に身を浸すことと引き換えに、立身出世を遂げる物語と言ってしまえばそれまでなのだが、それだけでは語りつくせない複雑で心をかき乱す余韻が尾を引く映画である。

タイトルの「ブラック」が表すように、この映画はすべてが黒ずみ、黒光りしている。
森には輝く太陽が燦々と降り注ぐが、森の中は木陰が多くて昼でもひんやりして薄暗い。
その薄暗い森には悪事と秘密がはびこる。
顔の部分だけ漆黒で正体のみえない殺人者による原始的でローテク(low-tech)の殺人、森よりももっと暗い洞窟で行われる同性愛者への屠殺行為を連想させる野蛮なリンチと去勢、森の中で陰部を露出する少年、従妹ヌリアは、アンドレウに性の秘密を明かして性行為を迫り、手榴弾によって吹き飛ばされた壊死した黒ずんだ左手を小箱から取り出して見せ、村に放火して駆け落ちしようと誘う。

富豪マヌベンスの館には明るい光がさすが、アンドレウの生家も祖母の家も室内はうす暗く、かろうじて人の顔が見える程度である。
室内で食す食べ物もどろどろとして黒ずんでいる。アンドレウの家族の顔も労働の後、風呂に入れないのか、黒ずんで汚れて見える。

薄汚れた黒っぽい服を着た、黒髪で黒光りする顔の中で、アンドレウのリスのように漆黒の光る情感豊かな大きな目が印象的である。
アンドレウをみつめる片手のない美少女ヌリアの瞳も黒豆のように黒光りしている。
ヌリアは、担任のロリコン教師に「おまえのあそこはナイチンゲールの巣のようだ」と言わせる早熟な少女だが、死と破壊への黒い欲望を隠し持つ危険分子である。
フォリオが処刑される刑務所も黒ずんでいる。
訪問にやってきたアンドレウの目の前で処刑された囚人も、黒い建物の中で黒いぼろきれに包まれて黒く横たわる。

映画の中で何よりも「黒い」のは、おとなたちのつく「嘘」であり、自己防衛と世間体維持のための「虚偽」である。
左翼思想の実践を掲げた父は、生業であった肉屋を暴力的に奪われて生きるすべを失い、権力者のマヌベンスの言いなりに黒い稼業に手をださざるをえなかった。
父は理想とはほど遠い生き方を余儀なくされたが、息子には偽りの顔しか見せなかった。
母を含む家族も父の状況を知りながら、父の嘘をかばい、逃亡したはずの父を屋根裏部屋に隠していた。
父が頼ったヌリアの父は、フランスに行ったのではなく、自宅で首つり自殺をしたところを娘ヌリアに発見された。
早熟なヌリアは、大人たちに合わせて嘘をつきとおす。
父を失い、母は男と逃げた孤児のヌリアは、大人になることは、嘘をつくことであり、虚偽に生きることだと知っていたからである。

「黒い」あるいは「腹黒い」者の筆頭は、権力者の農場主マヌベンス夫人である。
同性愛者の弟をフランスに追いやって強制的に結婚させ、相手の美青年をディオニソスとファリオに去勢させる。
弟が亡くなると、財産を横領するためにディオニソスを使い、その件でディオニソスが脅すと、今度はファリオにディオニソスを殺させる。
投獄されたファリオの命乞いを妻が嘆願すると、逆にファリオを処刑させてしまう。

もっとも黒いのがマヌベンス家だが、後継ぎがいないため、ファリオとの約束は守って、賢くてかわいらしいアンドレウを受け入れ、わが物にする。
アンドレウ・マヌベンスになった息子に捨てられる母フロレンシアの工場帰りの疲れた後ろ姿は、すすけて黒ずんで見える。
それに対して、良家の子息アンドレウは、みがかれた白い肌に、こざっぱりした制服を着て他人行儀をきどる。
母を見限った自分の黒い心、父の黒い嘘によって成り立った出世を苦く怜悧にかみしめながら、母をそっと見送るのである。

『ブラック・ブレッド』は、観客をきわめて上等で濃厚なダブル・エスプレッソを味わった気分にさせる。
黒くてどろどろしているのだが、不思議な洗練と清浄を感じさせる。
登場人物の黒い欲望が画面に染み込んでいるのに、なぜか憎む気になれず、許してしまう。
父やマヌベンスの隠された悪行も人間の一つの側面として認める気分になるのは、彼らにも人間らしいやさしさや思いやりが残っているからではないだろうか。完璧な善人はいないが、完璧な悪人もいないということを映画は示唆しているからである。

また、リアルに描いているように見えて、現実と幻想の合体を図っているところも息抜きになっている。
ガルシア・マルケス風マジック・リアリズムの要素―おばあさんの昔話、教会内に隔離されている肺病患者が翼をはやして天使になって飛んでいく幻想、鳥と天使の相関性など―が映画のリアリティーと緊迫感を適度にほぐしている。

理想のために身を滅ぼして悪人に堕ちた父と対照的なのが、アルコール中毒で小児性欲者の学校教師である。
この男性教師は、教室でほろ酔い気分で、「金持ちは貧乏人より尊い、負け犬になるな、勝つことにしか人生の意味はない、それには勝ち方を知ることだ」と子供たちに諭す。
自分の例を出して、ためらうアンドレウにマヌベンス家の養子になることを勧めるのは、この教師である。
アンドレウは「僕は先生とは違います」と反発するが、結局彼の教えを地で行くのは、他ならぬアンドレウであったことが後に証明される。
俗物でけしからぬ男に見えたが、実はこの教師こそが本音で生きる正直者だったとは人生は皮肉なものである。

1944年のカタルーニャは、スペイン内線の痛手から立ち上がれず、農民の生活は貧しいままで改革も実行されず、新たな独裁政権に苦しめられていた。
内戦後フランコ独裁政権下でカタルーニャ語は、公的な場から追放され、使用禁止にされた。
当時の状況をふまえて『ブラック・ブレッド』では、一般民衆である村人はカタルーニャ語を話し、官憲らは公的言語であったスペイン語を話す描き分けがされているという。
スペイン語を知らない日本人観客には、カタルーニャ語もスペイン語と同じに聞こえるのは残念である。
カタルーニャ語は、ラテン語から派生したロマンス語系の言語で、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方で話され、スペインのお隣の国、アンドラ公国の公用語である。
1,000年の歴史を持ち、話者は1000万人にのぼるという。

『ブラック・ブレッド』は、貧しい家庭に生まれた聡明で多感な少年のイニシエーション・ストーリー(通過儀礼をへて成長する物語、何かを経験することで生まれ変わり、自己に目覚める物語)である。
アンドレウ少年が学んだのは、圧政下のカタルーニャでは、権力に逆らっては生きられないということである。
両親の偽善を許せず、反撥したアンドレウは、父の失敗から逆に権力を利用して賢く生きることを学んだ。
理想ゆえに堕落して犯罪者として処刑された父の末路を見たことが、アンドレウ少年をおとなにした。
アンドレウにとっておとなとは、本心をあかさず、嘘によって身を守る状態だったのである。
駆け落ちの約束を破ったと責める従妹のヌリアにアンドレウは言う―「ママを置いていくんだよ、当然じゃないか」。

父ファリオの処刑は1944年に設定されている。その約一年後に第二次大戦は終結するが、それから30年以上フランコ政権は続く。周囲の厳しい事情のために早く大人になることを余儀なくされたアンドレウは、どんなおとなに、あるいは医師に育つのだろう。
アンドレウは苦くてかたい「黒パン」を甘くてやわらかい「白いパン」に変えることができるのだろうか?

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