サンタ・サングレ/聖なる血


(C)Happinet(SB)(D) ALL RIGHTS RESERVED

『サンタ・サングレ/聖なる血』  原題Santa Sangre
監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 、脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー、 ロベルト・レオーニ、クラウディオ・アルジェント、製作:クラウディオ・アルジェント、製作総指揮:ルネ・カルドナJr、アンジェロ・イアコノ、音楽:サイモン・ボズウェル、撮影:ダニエレ・ナンヌッツィ、
編集:マリオ・ボナンニ、配給:ケイブルボーグ
上映時間:123分、製作国:イタリア、メキシコ、言語:英語
キャスト:
フェニックス:アクセル・ホドロフスキー、コンチャ:ブランカ・グエッラ、
オルゴ:ガイ・ストックウェル、フェニックス(少年時代):アダン・ホドロフスキー、
アルマ:サブリナ・デニスン
公開:アメリカ 1990年6月27日、日本 1990年1月27日
DVD発売日: 2013年 9月3日、販売元: Happinet (SB)(D)
サンタ・サングレ 聖なる血 [DVD]


『サンタ・サングレ/聖なる血』―マジック・リアリズムが織りなす魂の救済
   
                           清水 純子

アレハンドロ・ホドロフスキー(Alejandro Jodorowsky)監督の『サンタ・サングレ/聖なる血』(Santa Sangre)は、
メキシコの猥雑な日常を一瞬にして非日常の魔術的空間に変貌させるサーカスの特異性を巧みに利用して、マジック・リアリズム(魔術的リアリズム)の世界を構築する。

『サンタ・サングレ』は、ホドロフスキー自身の幼少期を投影したサーカスで育ったフェニックスの自己開眼の成長物語である。サーカスの団長を父に持ち、父によって少年魔術師に育てられたフェニックス少年は、男になるために父によって父と同じ フェニックス(不死鳥)の刺青を胸に施される。
アル中で女たらしの父は、サーカス仲間のグラマラスな刺青女と不倫の最中を空中で演技中の母にみつかり、局部に硫酸をかけられ、痛みのあまり自殺する。
父は、絶命寸前に美しい母の両手を切り落として復讐を果たす。
母はレイプされた後に両手を切り落とされた少女を聖女として祭るカルト宗教「サンタ・サングレ」(聖なる血)の女教祖で
あった。
両親の殺し合いの惨劇をサーカスの車内に監禁のうえで目撃させられたフェニックスは正気を失い、精神病院に入れられるが、成人後脱獄して、母の手となって働き、連続女性殺人を犯す。
フェニックスが罪を償うのは、我にかえって幻影を追い払い、現実に目を向けた後、犯罪者としての服役によってであった。

★マジック・リアリズムとは?
「マジック・リアリズム」とは、日常的な現実と魔術(マジック、幻想)を融合させた芸術表現である。
ありえない幻想的事柄に現実の猥雑で即物的で具体的な描写を細かく積み重ねて神秘的リアリティを与え、現実と幻想を区別なく描く。
その結果、日常的な現実の世界と、非日常的非現実的世界が混在してしまい、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想なのか、判然としなくなる物語あるいは芸術作品をさす。

★『サンタ・サングレ』内マジック・リアリズムの事例
1.精神病院にて
『サンタ・サングレ/聖なる血』(Santa Sangre)は、現実とも幻想ともつかない摩訶不思議な場面を次々と展開する。
鮮血の血(サングレ)のように真っ赤な背景をくりぬいて白い活字「SANTA SANGRE(サンタ・サングレ)」が消えると、
次には白い壁を背景に髪も髭も伸び放題の若い男が全裸で木の上にうずくまっている。
白衣の看護師が一匹の生魚を与えると、男は奇声を発してかぶりつく。
非現実的な原始人のような男の姿と対照をなして、白衣の医療関係者が現実性を表し、同一平面上に非現実性と
日常性を併せ持つこの不思議な空間が精神病院であることを暗示する。
仮想現実であるスクリーンの精神病院内から、近未来において現実に存在するはずの観客席をにらむ狂った男の丸い目は、 鷹の目に変わり、空を羽ばたいて、鷹の目が鳥瞰図のようなメキシコ・シティを一望する。
時空を超えて鳥に成り変わった男は、過去に舞い戻り、その目は子供の頃過ごしたサーカスの一団の行列を見下ろす。

2.サーカスにて
次の瞬間、男はサーカスの行列の中で小人アラジン(ヘスース・フアレス)と共にゾウの背中に乗って行進している。
男の名はフェニックス (アクセル・ホドロフスキー)、サーカスの幼い魔術師(アダン・ホドロフスキー)であり、 父にナイフ投げの名人で団長のオルゴ(ガイ・ストックウェル)、 母に曲芸師でカルト教団「サンタ・サングレ」の
教祖コンチャ(フランカ・グエッラ)を持っていた。
サーカスという祝祭的な非日常的世界の中で、魔術を操る少年フェニックスにとって、日常は非日常に、現実は魔術に、 その逆に非現実は現実に、魔術は日常に、現実と非現実は双方向に行き来が可能な不思議な場所であった。
サーカスが支配するメキシコの街は、日常性を覆され、非日常のシュールな空間に生まれ変わる。
祭りの晩、サーカスの口のきけない少女アルマ(サブリナ・デニスン)を街路でじっと見つめる紳士が、
にやりと笑って突然自分の耳をもぎ取り、嫌がるアルマの顔に押しつける。
紳士の耳からは血も流れず、耳の付け根には人工的装置がみえる。
通りを逃げ惑うアルマの前には、おびただしいおもちゃの白い骸骨がダンスを踊り、道端には頭蓋骨が白く光る。
悪夢のような光景が現実なのか幻想なのかわからない。
登場人物の心象的光景を描いているとすれば、当事者にとっては現実、客観的には幻覚ということになる。

3.人形幻想
正気を失った青年フェニックスは、母コンチャの人形になる。
夫オルコ“によって両腕を切断されたコンチャは、 精神病院の窓の外からフェニックスに声をかけて脱走させ、自分の手の代わりにする。

a. 母コンチャと一心同体の青年フェニックス
フェニックスは、両手を失った母の背後に立ってパントマイムの舞台に立つ。
美しく、オーラを放つスターである母の後ろで姿を見せないフェニックスは、母の影法師であり、舞台の観客にその名前も存在も知られることはない。
フェニックスは、公的行事だけでなく、日常においても母の手であることを強いられ、母を膝に載せて食事をさせ、服を着させ、グランドピアノの前で母の手として叱咤激励されながら演奏の練習をさせられる。
母の陰の存在に閉じ込められたフェニックスは、テレビの『透明人間』に自分を見ると、テレビの映像内の透明人間がフェニックスに変わっている。
フェニックスが鏡に自分の姿を映すと、映画の観客にはフェニックスの姿は見えるのに、鏡は服だけを反射してフェニックスの顔を写さない。
フェニックスが偉大で強く「恐ろしい母」に吸収されて、存在感が希薄になっていることは明らかであるが、さらなる疑問が浮かぶ。
ベッドで悪夢にうなされるフェニックスを揺り動かすのは、隣に寝ている母である。
欧米の常識からいえば、こういう状態は、近親相姦を意味するのだが、果たしてそれだけだろうか?
母とフェニックスのあまりに緊密な融合は、二人が同一人物なのではないかという疑いも起こさせる。

b.フェニックス人形の犯行
まずオルコの浮気相手だった刺青女(セルマ・ティゾー)が何者かの手によって殺害される。
画面は犯人の手だけを映して顔を表さないので、誰の犯行かわからないが、刺青女をみつけたフェニックスが 怒りで顔を真っ赤にしていたところから、だいたいの想像はできる。
刺青女は、フェニックスと母コンチャの共通の仇敵であったため、母とフェニックスは共犯であった可能性がある。
刺青女殺害以降、フェニックスの手は、母コンチャの意志通りに動くようになる。
母コンチャは、フェニックスが興味を持ったり、欲望を覚えた女を邪悪な欲望に駆り立てる悪魔として 始末するよう命令する。
フェニックスは、自分の意志に反して、サーカスの「永遠の処女ルビー」、「強い女」レスラーを次々と 「母の手先」になって殺していく。
フェニックス人形の犯行に終止符を打たせるのは、幼馴染の少女アルマである。
アルマと再会して歓びの抱擁を交わす二人に嫉妬した母コンチャは、いつものようにアルマを殺せと命じるが フェニックスは今回は母の人形にならない。
コンチャの命令通りに動かないばかりか、逆にコンチャを刺して絶命させる。
「僕から出て行ってくれ!消え失せろ!」(Now get out of my life! Disappear!) というフェニックスに、 母コンチャは「私から逃げられやしない、私はお前の心の中にいる」(You will never be free of me! I’m inside of you.)と、 不思議な言葉を吐きながら煙のように消える。

C. 母コンチャ人形の怪
母の姿が消えて錯乱するフェニックスの脳裏に子供の頃、最後に見た母の姿が浮かぶ――父によって両腕を落された母が顔を隠されて担架で運ばれる映像が映る。
これは、母コンチャは幼いフェニックスの目の前で殺されていたことをほのめかしている。
母の生存への疑いを裏付けるかのように、フェニックスの家の中に放置されていた母コンチャの等身大の人形がみつかる。
フェニックスは、その美しい母コンチャ人形の背後から真っ赤なマニキュアの大きな手を出して、腹話術用の母人形を操り、 共に歌を歌う。
フェニックスが、母コンチャ人形に次いで教団の聖母人形を投げつけると、人形は目玉をむいて壊れ、アルマと道化師たちは 拍手喝采する。
アルマが、フェニックスの指先にはめられていた真っ赤な爪を一つ一つ外すと、フェニックス本来の手が現れる。
母の影響を排して、自分を取り戻したフェニックスは喜ぶ。
すると安心したかのように、道化師たちは消え、小人アラジンも手を振って消えていく。
母コンチャが人形にすぎなかったとしたら、フェニックスは、人形に操られた人形だったということになる。
ここでフェニックスは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』のマザー・コンプレックスのノーマン・ベイツ青年 と重なる。
コンチャが人形であった衝撃は、『サイコ』のノーマンの母はすでに死んでいて(ノーマン自身が殺した)、ノーマンが大切に 世話していた母はミイラ化した骸骨であったことが暴露されるショッキングなシーンを思い出させる。
精神を病んだノーマンが母と自分の一人二役を演じていたことから、フェニックスも多重人格者であり、フェニックスに殺人を命じていた母は実はフェニックス自身であったと考えられる。
目の前で母が父を殺し、父が母を殺す事態を車に閉じ込められたまま目撃した少年フェニックスの精神は、衝撃に耐えられず、正常性を失った。
母が生きていたらという願望が生み出した母の幻を追って精神病院を脱走したフェニックスは、幻想の中で母や昔の仲間に 再会し、母に責任転嫁して女性連続殺人を犯していたのである。
皮肉なことに、フェニックスの精神自体が、マジック・リアリズムの「ありえない幻想的事柄に現実の猥雑で即物的で具体的な描写を細かく積み重ねて神秘的リアリティを与え、現実と幻想を区別なく描く」状況を呈していたことになる。

魂の救済
フェニックスの魂の救済は、現実と幻想を区別なく生きるマジック・リアリズムの状況を脱して、現実をみつめ、 母の幻影を排して自分自身に立ち返った時に成就する。
アルマに手を引かれて外で待つ警官に「手をあげろ!」(Put your hands up!)と威嚇されたフェニックスは、意外なことにうれしげに「ぼくの手、ぼくの手、ぼくの手だ」(My hands,My hands!, My hands.)と叫ぶ。
母の霊によって自我を奪われ、自分を見失っていたフェニックスには、犯罪者として罰を受けることすら自分のアイデンティティを確認できるので喜ばしいことなのである。
狂気のために無自覚に人を殺(あや)めてきたアウトローのフェニックスだが、「自分の手だ」と喜ぶ箇所はすぐれたブラック・ユーモアであると同時に、痛ましく切ない。
両親の罪のために精神の正常な発達を阻まれた青年の心の深い傷が観客に伝わる。
フェニックスは、自分の犯した犯罪を償うことによってしかその魂を救うことはできない。
罪を償った後のフェニックスの魂は、不死鳥のように再生し、今度こそ堂々と晴れて空を舞うのである。

★見かけの派手さにもかかわらず、モラル性の高い映画 『サンタ・サングレ』は、派手で奇怪、装飾過多なグロテスクな映像美にもかかわらず、宗教的で教訓的作品である。
タイトルの「聖なる血」は、表面的には母コンチャの邪教が祭る真っ赤な絵の具の偽の血を意味するが、映画が真に象徴するのは イエス・キリストの血であろう。
キリストは最後の晩餐でパンと葡萄酒を「パンは私の体であり、杯は私の血である」と言って弟子たちに分け与えたことから、 キリスト教の儀式には、葡萄酒がキリストの血の代わりに使われるからである。
キリストは、人類の罪を贖って罪人として十字架刑に処せられ、苦しんだ後、復活して姿を現し、その後、天の父なる神の もとに昇天する。
フェニックスも父母の罪ゆえに苦しみ、罪を償った後、不死鳥のように復活する運命にある。
それゆえに狂気のために犯罪者に堕ちたフェニックスの風貌は、イエス・キリストを連想させる。
犯罪は犯罪を生む、犯罪の連鎖を止めるのには罪の贖いしかない」というメッセージには、強いモラルと正義への探究心が感じられる。
『サンタ・サングレ』は、様々な宗教や神話の形態を織り交ぜたマジック・リアリズムの体裁をとって観客を楽しませるが、 映画制作者は映画の冒頭に現れる険しい鷹の目をもって現実の世界をしっかり見据えて『サンタ・サングレ』を作っている。

フェニックスのモデルは、メキシコの連続殺人鬼ゴイオ・カルデナス(Goio Cardenas)である。
ホドロフスキーが映画制作のためにカルデナスに直接インタビューした時、カルデナスは弁護士にしてジャーナリストであり、良き家庭人になっていたが、彼は過去に30人以上の女性を惨殺して自宅の庭に埋めていた。
映画の中でフェニックスが殺したレスラーの大女を自宅の庭に埋葬すると、何十人もの裸体に婚礼のベールを被った女が土から甦って幽鬼のように歩み出す場面が現実のカルデナスの悪行を反映している。
映画同様、カルデナスを凶悪犯罪に駆り立てたのは、邪悪な母親の影響だとされる。
カルデナスは警察に自首した後、治療が効を奏して治癒し、釈放された後は「模範的市民」として立派に更生したが、以前の記憶はまったくないという。

凶悪な精神異常者にして犯罪者が立派な人間に生まれ変わるお伽話のような現実に驚かされたホドロフスキーは、犯罪者の社会的救済の物語を考えた。
ホドロフスキーと共同制作者のクラウディオ・アルジェント(Claudio Argento、ダリオ・アルジェントの実弟)は、 「生まれもった犯罪者の資質という考え方」(the notion of a natural predisposition to criminal behavior)を断固として否定する(Cobb 213-14)。
人間は努力によって必ず生まれ変わることができるのであり、それを支えるのは社会だというホドロフスキーの強い信念が マジック・リアリズムというアートの形をとって『サンタ・サングレ』に表れている。

警官隊に包囲されたにもかかわらず、自分の手を誇らしげに掲げるフェニックスを映す最後の場面には、聖書の「詩篇」143:6-8の言葉が挿入される―「わたしはあなたにむかって手を伸べ、わが魂は、かわききった地のようにあなたを慕います。
(略)わが歩むべき道を教えてください。わが魂はあなたを仰ぎ望みます。」(I stretch out my hands to thee: my soul thirst for thee like a parched hand・・・Teach me the way I should go for to thee I lift up my soul.) (Psalms、143.6,8.).

参考資料:
Cobb, Ben. Anarchy and Alchemy: The Films of Alejandro
Jodorwsky. Creation Books (www. ceationbooks.com), 2007.
パンフレット 『サンタ・サングレ:聖なる血』松竹株式会社事業部 1990年

Copyright © J. Shimizu All Rights Reserved. 2015 June 26