夜顔

夜顔』 原題BELLE TOUJOURS
2006年 上映時間 70分  言語フランス語 製作国 フランス/ポルトガル  
公開情報 劇場公開(アルシネテラン)  日本初公開年月 2007年12月15日
監督: マノエル・ド・オリヴェイラ /製作: セルジュ・ラルー /脚本: マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影: サビーヌ・ランスラン /美術: クリスティアン・マルティ /衣装: ミレーナ・カノネロ
出演: ミシェル・ピッコリ アンリ・ユッソン /ビュル・オジエ セヴリーヌ・セルジー /リカルド・トレパ バーテンダー /
レオノール・バルダック “若い”女性1 /ジュリア・ブイセル “若い”女性2 /ローレンス・フォスター 指揮者 (特別出演)
ブノワ・グルレ コンシェルジュ /イヴ・ブルトン ホテル支配人

DVD販売元: ジーダス


夜顔』――マノエル・ド・オリヴェイラのメタ・シネマの快楽

                                      清水 純子

マノエル・ド・(デ)・オリヴェイラ監督の『夜顔』(Belle Toujours、2008年4月3日京王線「下高井戸シネマ」にて鑑賞)は、予想外によかった。
なぜ「予想外なのか」というと、一般観客のレビューは、「作品の意図はおろか、存在価値自体が不明の映画」と芳しくなかったからである。
今年100歳の監督が、98歳の時(2006年)に完成した映画なので、無理もない、と私自身が高をくくっていたせいでもある。
その結果「人の言うことを鵜呑みにすべからず」、と思い知らされた。
マイナスの評価を与えた観客は、『夜顔』の下敷きになった『昼顔』(Belle de Jour、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーブ主演、1967年) を知らないから、評価もできないし、おもしろさも良さもわかりようがなかった、という単純明快な理由によると断言していいと思う。

映画の冒頭に現れる「ルイス・ブニュエルに捧げる」という文字が示すように、『夜顔』は『昼顔』の罪深い若妻セブリーヌの38年後を描いている。エリート医師の若妻セブリーヌは夫を愛していたが、夫によって満たされることのない性欲を発散させる目的で、ひそかに昼間だけの高級娼婦になっていた。サディスティックな客の要求に応える美貌と気品あふれるセブリーヌは、「昼顔」と呼ばれて人気者になったが、夫の親友が偶然客として館を訪ねたことから、セブリーヌの秘密は危うくなる。
セブリーヌの口封じのための計画は失敗して、夫を身体障害者にしてしまう(ここまでが『昼顔』)。

(以下からは『夜顔』)夫亡き後のセブリーヌの良心の呵責と気がかりは、夫の親友がどこまで本当のことをしゃべったのか、ということだった。
夫に聞くこともできず、疑心暗鬼で過ごしてきだセブリーヌは、38年後、夫の親友(ミッシェル・ピコリ)と偶然に出会う。
過去と決別したつもりのセブリーヌは逃げ回るが、本当のことを知りたい欲望に負けて、老紳士ピコリのディナーの招待に応じる。
しかし、ピコリ扮する親友に、「本当のことを御主人に言ったかどうか、私が本当のことを言うと思うのか」と言われて、癇癪をおこして、席を中座して帰ってしまう。
後に残ったピコリはセブリーヌの置き忘れたバッグから紙幣を抜きとって、高級レストランのボーイにチップとして与え、店じまいをするボーイはピコリのことを「本当に変わった人だな」と評する。

『昼顔』のドヌーブが『夜顔』に出演しなかったためであろうか、『夜顔』の主役はピコリに変わった、と言ってよい。
まわりから「変わった人」とみられているこの老紳士は、相変わらず好奇心旺盛、人好きであると同時に、回想を好み、ゆえに聞き手を常に必要とする。

セブリーヌが入っていったバーの若いバーテンダー相手に、昔のセブリーヌの事件をうちあける。
ピコリに興味を持ち、ものにしようと狙って聞き耳をたてる、バーの常連の老若の娼婦が同席する。
過去の秘密を黙って胸におさめたまま存在する建物としてのホテル・レジーナ、ホテルの前に立つ証人のような銅像の目がある。
そして、なによりも自分たちの過去の物語『昼顔』を知り、あらたな物語『夜顔』に聞き耳をたて、好奇心をもって画面を注視してくれる観客をあてにして、物語を紡ぐ老紳士ピコリ、そして監督のオリヴェイラを感じる。

逆にいうならば、過去を知らない、あるいは知ろうとしない観客を相手にしていない映画が『夜顔』なのである。
自分たちの過去と物語を共有できる観客だけを対象にして、映画通でない観客をはじめから締め出すつくりになっている映画なのである。

『夜顔』を理解できる人は、オリヴェイラから招待を受けるにふさわしい観客だと認められたのであり、その意味で、特権を持つ観客である。
ハリウッドの大衆的娯楽映画のように、誰でも見れば理解できる、観客動員数で勝負する、質よりも量の映画と対極に位置するのが『夜顔』である。あらかじめ設定された観客だけを念頭において作られる映画に、ヨーロッパ文化の閉鎖性を見るか、プライドを見るかは、観客個人の主観と価値観によるだろうが、『昼顔』の世界を愛し、心地よく感じる観客にとっては、『夜顔』も引き続き美味な映画になる。

ピコリと二人だけのディナーに出席した初老のセブリーヌの相変わらず美しい金髪を引き立てる、黒いレースのドレスは、『昼顔』のセブリーヌの妄想の「死の儀式」あるいは「黒ミサ」を蘇らせる。
シースルーの黒衣の花嫁衣装の下に透けて見えるドヌーブの大理石のような白い肌がある。カメラが全身を映すと、ドヌーブはこともあろうに、黒いドレスの下にはパンティーもつけていない全裸を透かして見せる。
神聖な宗教儀式の場でなんという背徳!「昔の私は死にました。尼寺に行くことも考えています」とまことしやかに告白する初老のセブリーヌも信用できない。
彼女は独身だと言っているが、『昼顔』の彼女を黒ミサに誘った変態貴族を見習って、夫の死後は彼女自身がネクロフィリア(死体愛好症)のように、亡き夫の思い出を愛でている。今はどんな方法で死んだ夫への満たされない愛欲を発散させているのだろうか。
昔セブリーヌが興奮したという秘密の小箱をプレゼントするピコリは、セブリーヌに受取りを拒否されて「では代わりに私が楽しませてもらう」というが、あの箱には何が入っていたのか。締め切られた、蝋燭だけが灯る、二人きりのディナー室の扉が開いて、突然姿を現す「にわとり」は「不道徳」の象徴だという。
いったい、この初老の男女は何を胸に秘め、たくらんできたのか、これからどうしようというのか。
本当のことは何も明かされずに秘密のままに終わる映画である。
ちょうど『昼顔』の結末が現実とも妄想ともとれるように、『夜顔』もすべてあいまいなままに終わる。

『昼顔』のミッシェル・ピコリは、禿げあがった頭に、中年男性特有の脂ぎった、淫蕩な好奇心丸出しの屈折した雰囲気を発散させていた。
『夜顔』のピコリは、恰幅のいい老紳士になり、油分が落ちた分だけ親近感の持てる存在になったが、素直でない、皮肉屋ぶりは健在であった。
相変わらず、能面のような顔に秘密を隠して、つんとすましている人形のようなセブリーヌに、にやにやしているピコリの満足げな笑みに、ヨーロッパ文化の一筋縄ではいかない、屈折した、重厚で豊かな香りを感じた。

『夜顔』は、本物の映画の味とヨーロッパの伝統の香りを好む人だけが嗜む映画である。
ドヴォルザークの「交響曲8番」の演奏で始まるコンサート、セブリーヌの宿泊するホテル・レジーナをはじめとするパリの伝統的で豪華な建物の数々、エルメス、プラダ、シャネル、セリーヌなどの優雅で格調高い衣装の目もくらむ美しさなど、視覚的快楽を堪能させてくれるフランスの粋を集めた映画である。
『夜顔』は豪華でほろ苦い、通向けに制作された映画である。

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昼顔』のカトリーヌ・ドヌーブ


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