ダゲレオタイプの女


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『ダゲレオタイプの女』(原題La femme de la plaque argentique
製作年2016年/ 製作国 フランス・ベルギー・日本合作 / 配給 ビターズ・エンド/
上映時間 131分/ 映倫区分 PG12
スタッフ:監督&脚本:黒沢清/プロデューサー:吉武美知子、ジェローム・ドプフェール/
 共同製作ジャン=イブ・ルーバン
キャスト: タハール・ラヒム: ジャン/ コンスタンス・ルソー:マリー/ オリビエ・グルメ: ステファン/ マチュー・アマルリック: ヴァンサン / マリック・ジディ: トマ/
2016年10月15日から、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテほか全国で公開。
公式HP: http://www.bitters.co.jp/dagereo/


ダゲレオタイプの女―感染する狂気
                                  清水 純子    


ジャポニズム抜きの成功 
 黒沢清監督のフランス映画初挑戦は、ホラー・ラブストーリー 『ダゲレオタイプの女』である。
フランス人俳優とスタッフを使って、全編フランス語で通す正真正銘の見事なフランス映画に仕上がっている。
 黒沢監督は、アンスティチュ・フランセ東京主催の「フランス幻想映画特集」で『顔のない眼』(1959年)をリストに入れて推薦しただけあって、『ダゲレオタイプの女』は、ジョルジュ・フランジェ監督へのオマージュに満ちている。『顔のない眼』を彷彿とさせる本歌取りといっていいようなシーンやイメージがちりばめられていて、フランスでも違和感なく受け入れられたのがうなずける。
 日本人が作ったものといえば、これまではジャポニズム(ヨーロッパから見た日本趣味)抜きの評価はむずかしかったのに、黒沢清監督は、いっさい日本を表に出すことなく成功した。フランス人の嗜好に合うようなつくりであるのに、フランス文化に媚びることなく、自分の持ち味を失わず、力まず自然に作って成功した。すごいことである。日本にもこんな監督がついに出現したのかと喜ばしい。日本人として、映画のみならず、文化のグローバル化参入に成功した証である。


ダゲレオタイプとは?
 ダゲレオタイプ(フランス語:daguerréotype)とは、フランス人画家ダゲールが1837年に発明した世界最古の写真撮影法である。銀メッキをした銅板を使うため、銀板写真と呼ばれる。長時間の露光が必要なため、被写体となる人は、同じ姿勢で息をつめたまま、拘束器具による長時間の束縛を受ける。ネガを作らずに直接銀板に写真を焼き付けるため、写真は複製できず、世界に一枚しか残せないし、存在しない。
 黒沢清監督は、日本の写真美術館で見たダゲレオタイプの女性の肖像画に強烈な印象を受けて本作を思いついたという――「彼女は苦痛とも恍惚ともつかない表情で虚空を見つめていたのですが、それは彼女の身体が数分間の露光時間に耐えるよう完全に固定されていたからだと知って、この時代の写真技術に多いに興味を持ちました」(黒沢 「黒沢清監督インタビュー」パンフレット『ダゲレオタイプの女』)。『ダゲレオタイプの女』は、被写体の女性の苦痛と忍耐の限界を超えて、長時間まばたきすら禁止して器具にくくりつけた写真家のエゴイズムとサディズムの結末を描いたといえる。


芸術にまつわる狂気

A.ステファン妄執
 写真家ステファンは、パリ郊外の古めかしいお城のような舘で、美しい娘マリーをダゲレオタイプの写真に写すことを日課にしている。マリーは父のために長時間にわたって拘束され、失神することすらあった。等身大の銀色の譜めくりのような器具に、手、腰、脚を固定され、レバーで締めつけられて苦しそうに息を潜めるマリーを見ても、父のステファンは、芸術のためだからと一歩も譲らない。ステファンは、マリーの美しい姿は、銀板に焼き付けられることによって永遠に生きながらえるのだから、犠牲は当然だと信じて疑わない。古い物好きの珍しいもの好きの近隣の住民が時折、ダゲレオタイプの写真撮影を依頼してくることはあるが、こんな小遣い稼ぎでは屋敷すら維持できない。ステファンは、170年前に滅びたダゲレオタイプの写真術の現存する唯一の継承者としての誇りを貫き、娘の苦痛もひっ迫する家計もおかまいなしなのである。
 床まで届くヴィクトリア朝の蒼い美しいドレスをまとわされた娘マリーは、実は2代目モデルであった。ステファンのダゲレオタイプの写真術の妄想を助ける初代の被写体は、美しい妻のドゥニーズだった。妻ドゥニーズは、夫の芸術のために献身的に奉仕したが、耐えられなくなり、温室で首つり自殺を遂げた。ドゥニーズの命を懸けた抗議にもかかわらず、ステファンは自分の芸術家としての信念を曲げず、愛妻がなぜ自殺したのか理解できない――「ダゲレオタイプに焼き付けて永遠の生命を与えてやったのに、感謝もせずに、あてつけに自殺するとは、なんという恩知らずか」と。 反省もせず、ダゲレオタイプ術の虜になったままのステファンは、娘マリーを妻の身代わりに奉仕させている。ステファンは、娘マリーを屋敷に半ば監禁状態にしておくことによって、サディスティックな家父長としての所有欲と優越性を維持していた。マリーの献身は、ステファンの芸術的妄執を正当化する道具にされていた。ステファンは、古めかしい写真術に魅入られた狂った芸術家である。

B.妻ドゥニーズの献身   
  ステファンの芸術家としての信念に忠実に生きようとした妻ドゥニーズは、ついていけなくなり、苦痛のあまり自殺した。出口なしの心理状態で自殺したドゥニーズは、夫ステファンの狂気に感染した末である。狂った夫ステファンは、妻の死が自分の責任だとは認めたがらず、妻の亡霊を見ると狂喜して後を追う。ドゥニーズの亡霊はステファンだけに見えるものではなさそうである。この舘に助手として雇われたジャンもドゥニーズの前にもドゥニーズは姿を現すからである。男のエゴに絞め殺された女の怨念は、この舘にこびりついて離れず、時たま出没するのか?生きている人間の前に姿を現す亡霊の意図は不明であるが、古い館に住み、狂気に感染した人の前に出没する。生前夫の狂気に感染したまま回復することなく、亡霊に転じたドゥニーズの狂気は回復することはない。超自然の存在となった今では、人間の理性を存分に離れる特権を得ている。ドゥニーズの霊魂は、この舘で同じく理性を失いつつある同類の生者の前に、自らの狂気を露出狂のように顕わして、狂喜する。亡霊のシンボルである娘マリーも着る青いヴィクトリアン・ドレスは、かって亡霊ドゥニーズの制服であった。

C.娘マリーの監禁
母ドゥニーズに生き写しの娘マリーは、父にとって愛妻の身代わりであり、モデルとしてなくては
ならぬ存在である。母ドゥニーズの亡霊と父ステファンは、結託して娘マリーを生涯この舘に閉じ込めようと画策する。マリーは、この舘で唯一狂っていない人物であった。それだから表向きは、父の命令に従っていたが、秘かに面接試験を受けて、トゥルーズの植物園の世話係に採用される。ジャンと共に遠い土地に移る決意をかためたマリーは、突然屋敷内の階段から転げ落ち、息絶える。マリーの不注意だとも言い切れず、なにものかが突き落とした可能性が残る。犯人は父でないとしたら、亡霊の仕業ではないだろうか? 狂った母ドゥニーズは、自分の生んだ娘がこの舘を離れるのが許せず、自分と同列に並べることによってマリーをこの舘に縛りつけようとしたのであろう。ドゥニーズの亡霊と父ステファンは、この舘内にマリーを拘束するという共通の目的を持っていたために、亡霊はステファンに危害を加えなかったのである。

D.助手ジャンの生贄
 開発計画の中心部にあたるこの館の売却を望む不動産業者は、ジャンを通じてステファンを説得しようとした。頑として応じないステファンに、ジャンはてこずり、険悪な関係になるが、ジャンのマリーへの愛は本物である。マリーと駆け落ちしようとした矢先、マリーは不自然に階段から転落する。救急車を呼ぼうとするジャンを「手遅れだ」と引き留めるが、ジャンは構わずマリーを車に乗せて夜の通りを疾走する。ところが運転ミスのうえに、完全にロックされていなかったドアは開き、マリーの遺体は、車外に放り出され、川に沈む。しかしジャンは、マリーが遺体であったことも、川に沈んでしまったことも認識できない。暗闇の藪から姿を現したマリーを狂気して抱きしめ、元気なマリーを見て病院行きをやめて、二人で逃避行のドライブを続ける。と見えたが、朝になって車内で、助手席のマリーに愛を囁くジャンのかたわらには誰もいない。ジャンも館で、狂ったステファンの助手をしている間に狂喜のヴィールスに感染していたのである。ジャンは、館を逃れたが、狂気からは逃れることができなかった。ジャンが再び監禁されるのは、館だろうか?それとも精神病棟だろうか?

ジャンはいつ狂気に感染したのか? 
  ダゲレオタイプの写真術に魅せられたステファンの狂気は、まず妻ドゥニーズに感染して死に導いた。次に狂った生者の父と、感染したまま死者になった亡霊の母の双方から責められて、娘マリーも母と同類にされてしまった。 完全な外部者であったジャンは、狂気のヴィールスに対する抗体を持たなかったために、一番症状が重く、映画修了時には、完全に発狂したことが客観的に示されて、恐ろしくも哀れである。ステファンはどの時点でヴィールスに侵されたのだろうか? 
面接を受ける前にジャンが見た青い服の女が娘のマリーだったとすれば、その時は正気だった、だがドゥニーズだったとすれば、館に一歩足を踏み入れた時点ですでに狂気に感染していたのである。


生と死の境界線に立つダゲレオタイプ
「ダゲレオタイプ」は、死んだ子供など二度と会えない者に永遠の生命を与えるために葬儀の際に使われた撮影術だったという(「その撮影は永遠の命を与える愛」 パンフレット『ダゲレオタイプの女』)。映画の中でも棺に納められた赤子の遺体をステファンが葬式場まで出向いて撮影する場面が出てくる。もともと生と死の境界線上に位置する存在であったダゲレオタイプの写真術には、死者をあの世からこの世に呼び戻したいという人間の欲望が込められていた。ゴシック風の館に住み、ダゲレオタイプの写真にかかわる一家が、生と死の境界線を取り払って二つの世界を行き来したところで何の不思議があろうか。
 黒沢監督は、ダゲレオタイプの写真術を軸に、古今東西変わらぬ幽霊ものの陰の立役者である「古い館」を背景に、生と死の幽玄なゴシック・ロマンスを編み出したのである。


参考資料:
黒沢清 「黒沢清監督インタビュー」 『ダゲレオタイプの女』パンフレット、東京:ビターズ・エンド、バ ップ、2016年。
「その撮影は永遠の命を与える愛」『ダゲレオタイプの女』パンフレット。

 

2016年10月14日 アンスティチュ・フランセ東京にて
黒沢清監督(左)によるティーチイン 清水純子撮影

 

映画ポスター(左)、拘束器具(中央)とマリーのドレス(右)
新宿シネマ・カリテにて展示中      清水純子撮影


©2016 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2016. Oct. 22

 


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