エル (清水)

(C)2015 SBS PRODUCTIONS – SBS FILMS– TWENTY TWENTY VISION FILMPRODUKTION – FRANCE 2 CINEMA – ENTRE CHIEN ET LOUP


スタッフ:監督ポール・バーホーベン/ 製作 サイード・ベン・サイード、ミヒェル・メルクト/ 原作 フィリップ・ディジャン/ 脚本 デビッド・バーク/ 製作年 2016年/ 製作国フランス/ 言語フランス語(英語字幕、英語解説付き)/ 配給 ギャ ガ/ 上映時間 131分/ 映倫区分 PG12/ オフィシャルサイトhttp://gaga.ne.jp/elle/DVD:SONY Pictures Classics、2015(米国輸入盤)。

キャスト: イザベル・ユペール - ミシェル・ルブラン/ クリスチャン・ベルケル - ロベール/ アンヌ・コンシニ - アンナ/ ロラン・ラフィット - パトリキ/ ヴィルジニー・エフィラ - レベッカ/ シャルル・ベルラン - リシャルト・カサマヨウ/ アリス・イザーズ - ジョシー/ ジュディット・マーレ - アイリーン・ルブラン/ ジョナ・ブロケ - ヴァンサン/ ルーカス・プリショル - カート/ アルチュール・マゼ - ケヴィン/ ラファエル・ラングレ - ラルフ/



『エル』(Elle――キャリア・ウーマンのねじれた欲望     
 
                           清水 純子


*不可解な「エ
『エル』は、レイプされたのに、訴えることも、怯えることも、復讐することもなく、平然としている世にも不可解な女の物語である。仮死状態にあるか、正常な意識を持ちえない女以外は、そんな奇妙な行動はとらない。女性にとって死に等しい暴行に拒絶反応を起こさないとしたら、それはレイプではなく、犯罪でもなかったのではないか?と疑うことが常識である。レイプ魔の欲望を煽り、レイプの行為を正当化する危険な仮定であるが、性犯罪を告発しない事情はいざ知らず、特に傷ついたそぶりも見せない女性側にも特別な理由があると疑うのが自然である。


*トラウマを克服したキャリア・ウーマンのミシェル
題名の「エル」(彼女)とは、ヒロインのミシェルのことである。ミシェルは、ゲームソフト制作会社のやり手のオーナー社長である。ミシェルは、仕事一筋のキャリア・ウーマンに見えるが、離婚歴があり、成人した一人息子ヴァンサンがいる。頭脳明晰で有能、孫が生まれるような年齢には見えない美貌のミシェルを取り巻く家族たちは、なぜかダメな人間が多い。元夫のリシャールは売れない作家で、いまだにミシェルに未練を持っている。息子のヴァンサンは、わがままな嫁の尻にしかれ、浅黒い肌の赤ん坊を息子だと信じ込まされ、嫁に追い出されると母ミシェルの元に駆け込む。母アイリーンは、元看護士だが、老齢にもかかわらず性欲を抑えられず、若い男を囲って再婚しようともくろみ、ミシェルの嫌悪するところとなっている。しかし誰よりもミシェルを傷つけたのは、服役中の父親である。連続殺人犯の父は、放火によって大量殺人を犯した際に、10歳の少女であったミシェルに犯行を手伝わせた。焼け跡に灰まみれで一人たたずむ少女ミシェルの姿は、連日マスコミを賑わし、ミシェルの心と社会的立場を深く傷つけた。しかし、ミシェルは、被害者に甘んじることをよしとせず、トラウマを克服して強い女になる。ミシェルの芯の強さは、不甲斐ない家族を支える力になっている。ミシェルの実力は、会社の従業員の男たちにミシェルを憎ませるか、あるいは熱愛させるかのどちらか一つを選ばせてきた。できる女ミシェルは、常にあこがれと憎悪の両極端の視線を浴びて生きてきた。

*レイプ事件
強そうに見えても、家に戻れば、ミシェルは無防備で孤独な一人の女にすぎない。それを証明するのは、レイプ事件である。愛猫の黒猫をベランダから家の中に入れようと窓を開けた途端に、黒手袋の屈強な手にわしづかみにされたミシェルは、床に倒される。必死の抵抗にもかかわらず、ミシェルは野蛮にレイプされる。

*不可解なミシェルの冷静さ
黒覆面に全身を黒装束で覆った暴漢がいなくなると、ミシェルは、落ち着いて床に散らばった陶器の破片を箒でかき集めて捨てる。直後にやってきた息子のヴァンサンにも顔の傷を「自転車で転んだ」と真っ赤な嘘をついてすましている。警察にも届けることなく、会社の親しい同僚と夫に「レイプされたけれど、警察沙汰にはしたくない、警察はもうたくさん!」と打ち明ける。ミシェルは、病院でレイプ患者に必要な検査や手当を受け、射撃の訓練をして、護身用スプレーや武器を購入して備えるが、不思議なまでに平然としている。ミシェルは、レイプされた痛手はそっちのけで、誰がレイプ犯なのか秘かに探ることに興味がある。会社で製作中のゲームには、モンスターの触手にレイプされてうめくヒロインが登場するが、その顔がミシェルにすり替えられた映像が会社中にばらまかれる。ミシェルは、問題の映像を仕込んだ部下がレイプ犯だと疑って、パンツを脱がせて確かめるが、違った。レイプ犯はユダヤ教の儀式の割礼を受けていたが、この若者の下半身に割礼の痕跡はなかった。

ミシェルのねじれた欲望
 ミシェルは、年不相応に性欲の強い母のことを「グロテスク、殺してやる」と侮蔑しているが、実はミシェル自身が独り身を持て余している。ミシェルは、同僚アンヌの夫ロベールと秘かに不倫している。それにアンヌとも???と思わせる場面もある。ミシェルは強烈な個性ゆえに嫌われているが、魅力があるので老若男女に注目され、望まれることすらある。でもミシェルの性欲はロベールだけでは満たせない。ミシェルは、黒装束の暴漢からのメールに「あなたは、年のわりには締りがよかった」と書かれた言葉に自尊心をくすぐられたらしく、周りの男に露骨に話している。さらにミシェルは、隣家の様子のいい男パトリキが妻レベッカと一緒のところを窓から双眼鏡で覗き見しながら、マスターベーションする。

*屍姦を連想せるミシェルの愛欲   
無表情のままティッシュで股間をぬぐうミシェルは怖い。イザベル・ユペールの冷徹で無機質な演技は、スリリングではあるが、嫌らしさは不思議に感じさせない。シャロン・ストーン他数名のアメリカ女優がこの役のオファーを断ったというが、ユペールのようには演じられなかったことだろう。ユペールの演技力とインテリジェンス、女優魂の勝利である。
 ミシェルは、銀行員であるパトリキを自宅での夕食会に招く。パトリキの隣に坐したミシェルは、親族友人が列席するテーブルの下で靴を脱いで、足でパトリキの股間を愛撫する。まんざらでもなさそうなパトリキの表情に対して、ミシェルはポーカーフェイスである。
 ミシェルは、ロベールと秘密の情事にふけるベッドにおいても死体のようにふるまう。屍姦をしたような奇妙な悦楽を覚えたロベールは、「すごい経験だ、死んだマネなんて君はどこでそんな技を覚えたの?」と問いかけるが、ミシェルは、無言で表情を変えない。
 ミシェルは、セックスにおいて受け身を演じることに快感を感じている。実生活では、能動的アイディアと実行力を発揮しなければならない経営者であることへの反動だろうか? 無言で反応を示さないというのがミシェルの女性としての特技であり護身術でもある。
 ミシェルには、好みの男に犯されたいというファンタジーが潜んでいる。女性に性的純潔を要求するカトリック文化圏にあって、ミシェルといえどもその軋轢から完全に自由ではない。だから能動的に男を誘うよりは、気に入った男に自分を犯させて性的快楽の罪を男に押し付け、責任転嫁をすることが性欲の罪から逃れるコツである。神なんか信じないというミシェルの周りには、皮肉なことに抹香臭さがあふれている。TVにはローマ法王が映り、時はクリスマス、夕食会でも食前の祈りを捧げる信心深いパトリキの妻レベッカがいる。そのレベッカの夫、多分ユダヤ系らしいパトリキを誘惑するのはミシェルの背徳の快感になる。それだから、ミシェルは秘かに誘惑しておいて、セックスの最中は死体のように横たわり、望む男に犯される形にすることがお気に入りなのである。

*サド・マゾ関係の行く末
好みの男に犯されるというミシェルの夢想に都合よくはまったのが、レイプ事件である。黒づくめの暴漢は、なんとミシェルの性的夢想の対象パトリキであった。ミシェルは知らずに受動的に理想の男に身をまかせていたことになる。
 ミシェルの性的ファンタジーを完璧な形で実現したこの重宝な男パトリキも、実はねじれた欲望の持ち主であった。野性的容貌のイケメンのパトリキは、社会的には銀行員という堅苦しい職業につき、家庭には信心深いカトリック教徒の美女妻が控えている。パトリキは、ミシェルに覗き見されていることを知っていたのか知らなかったのか明らかではないが、ミシェル宅に招かれて性的誘惑を受ける前に、ミシェルに先手攻撃をかけていたことになる。レイプは、ミシェルのプライドにとって大きな栄養になるできごとであった。パトリキは、抵抗する女にしか欲情しない特異体質の男なので、その対極にあるミシェルの徹底的受け身を好む特異な女の性を本能的に見抜いたのかもしれない。
 ミシェルは、レイプ犯がパトリキであることを知ると、一度は警察に訴えると脅すが、実行はしない。再度アタックするパトリキも、抵抗するミシェルに腕を怪我させられても怒らず、事故にあったミシェルが助けを呼ぶといそいそと参上する。パトリキ宅で、酔って寝ている息子を残して地下室で再び犯された後、ミシェルは夕食のお礼を言って和気あいあいのうちに別れる。ここまでくると、パトリキとミシェルの関係は、合意の上のサド・マゾ・ゲームであることがわかる。当然、他人の関与すべき事柄ではない。
 ミシェルとパトリキのサド・マゾごっこを終わりにしたのは、息子ヴァンサンである。夜帰宅して、暴漢に襲われているミシェルを助けようとヴァンサンは、のしかかっているパトリキの頭を殴って殺してしまう。倒れる直前に覆面をはずしてミシェルに「なぜだ?」と問うのがパトリキであることがわかると、ヴァンサンは泣きだす。パトリキを殺された時も、ミシェルは能面のような表情で「終わったのよ」と言って息子を抱きしめる。

*女の欲望の事後処理のしたたか
 警察の聴取に応じるミシェルの言葉からは、ミシェルが被害者であったことしかわからない。パトリキとミシェルのねじれた快楽の本質は誰にもわからない。引っ越していくパトリキの未亡人レベッカのみが真相を知っていたーー「パトリキはいい男でした。でもねじれた欲望の持ち主で、一時的にせよ、あなたによって満足させられて幸せでした」と言い残して去っていく。
 ミシェルは、またもや被害者を装って巧妙に欲望の罪を闇に葬った。ミシェルの欲望するプリンスは、レイプ魔のパトリキであったが、欲望が公になるよりは、プリンスが消えてくれた方が都合がよかった。母のプリンスを殺害したのが息子だということもエディプス・コンプレックスめいている。
 映画では明らかにされない連続殺人鬼の父の自殺の動機も不可解である。臨終の母の言葉に従って、ミシェルが刑務所に面会に行くことを知ったその日に父は首つり自殺をしている。いろいろと問いただしたかったミシェルに先手を打った形の死である。父は、連続殺人の動機その他をミシェルに話したくなかったことは明らかである。映画だけからは知る由もないが、この殺人事件の原因に幼い少女であったミシェルが何等かの形でからんでいたことも想像できる。「弱き者よ、汝の名は女なり」(『ハムレット』)ということなのか。

*男性のファンタジーとしてのファム・ファタール  
『昼顔』のセブリーヌを連想させる幕切れであるが、ミシェルの創造者は、原作者も監督も共に男性だという事実に注目されたい。ミシェルは、ねじれた欲望を埋め込まれた女として産声を上げたが、作り主の男性の欲望の投影像なのではないだろうか? こんないい女にもてあそばれたい、殺されるほど愛されたいという男性のファム・ファタール願望の具現化がミシェルではないか? 
 ミシェルの母親もミシェルも、盛りのついた女として描かれているが、産卵期を過ぎた人間の雌はふつうは常に発情してはいないはずである。個人の体質や好みの違いはあるが、女は男とは違って常に欲情しない。男の欲望の量が女のそれを上回ってきたので、性が常に商売になっていることを考えれば自明の理である。人は、自分の恥ずかしさゆえにねじれさせた欲望を他者のせいにして責任転嫁をはかり、罰を逃れ、面目を保とうとする卑小で狡猾な存在なのであろう。

©2017 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2017. May 6.


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