イブの三つの顔

Twentieth Century Fox Film Corp.


出演: ジョアン・ウッドワード監督: ナナリー・ジョンソン 形式: Black & White, Color, Limited Edition,Widescreen販売元: 20世紀 フォックス ホーム エンターテイメント時間: 92 分

『イブの三つの顔』―悪い女に惹かれる男たち
                          清水 純子

殿方は、かわいげに見える女性の隠された、もう一つの顔を見た時、「女は魔物だ」とのたまう。
「魔性の女」は、魔女のように忌み嫌われるが、その一方、男心を弄び、悩ます魅力がある。
男は、女の思いもよらなかった闇の部分に触れた時、悪い女を痛めつけて支配したいサディストの欲望と並行して、悪い女に存分に痛めつけられる快楽を味わいたいマゾヒストの相反する、隠された自己の欲望に目覚める。
それだから、男は、女の魔性を攻撃しながらも、いたぶられたい誘惑に勝てず、懲りることなく近づき、破滅する。
悪女ものが世にまかり通るのは、女の魔性のせいだけではなく、男性側のこの複雑なアンビヴァレントな心理に負っている。
このように言うと、悪女は本人の自発的意志によって誕生するように聞こえるが、常にそうとはかぎらない。

『イブの三つの顔』(The Three Faces of Eve, 1957年) のイブ・ホワイトは、結果的に周囲の男性たちを振り回し、困窮させるが、自発的悪意によってではなく、多重人格という心の病のためである。
羊のように夫に従順な主婦のイブ・ホワイトは、ある日突然、幼い愛娘の首を紐で締め上げる。
妻の悲鳴を聞いて駆けつけた夫は、ベッドの上に散らばった酒場女風の派手なドレスと靴の高額な支払いに激怒するが、イブ・ホワイトには全く記憶がない。
平凡な主婦に似つかわしくない、派手な服装での深夜の酒場通い、男漁り、幼児虐待は、もう一人の隠された女、イブ・ブラックの仕業だった。
殴ることによってしか妻を管理できない、頑固で無知な夫は、イブ・ブラックの奔放さが許せず、離婚する。
精神分析医の治療に委ねられて以来、イブ・ホワイトを抑えて、イブ・ブラックが天下を取ったかのように見えた。
しかし、第三の人格、イブ・ジェーンが登場し、幼児期に母から祖母の死に顔へのキスを強制されたことがイブ・ブラックの出現の原因であったことが判明すると、イブ・ホワイトとイブ・ブラックの人格は消える。
均整のとれた理想的女性である第三のイブが支配権を握り、おおらかで温かい男性を得て、イブは幸せになる。

注目すべきは、イブ・ブラックに注がれる男たちの視線の熱さと厚さはイブ・ホワイトとは比較にならないという事実である。
目立たない主婦であるイブ・ホワイトは、妻、母としての女のジェンダー、つまり良妻賢母として生きているので、非難されることも注目されることもない、空気のような存在である。

それに対して、イブ・ブラックは、育児を放棄し、夫の存在を否定し、不特定多数の男を誘う、女の性的欲望を隠さない、自由と自我を主張するアバズレであり、刺激的女性である。
イブ・ブラックは、困りものとして描かれるが、映画の中の男たちも観客も皆イブ・ブラックに大きな魅力を感じる。
毛布のようなスカートを巻きつけた、ぼってりして、だだっ広いだけに見えた主婦のイブ・ホワイトのお尻は、イブ・ブラックの挑発的なドレスにつつまれると、引き締まって、かっこのよいヒップに生まれ変わる。
イブ・ブラックに変身した妻のあられもない媚態にあきれる夫すら欲望をそそられて、ベッドインを強行しようとする。
女性には闇の魅力が必要であることは、ホワイトなだけでは幸福になれなかった女性が、ブラックの魅力を添付されたことによって、イブ・ジェーンに生まれ変わり、理想の家庭を築く結末に示されている。

21世紀の今日では、フロイトの性的抑圧、多重人格の概念は珍しいものではない。
しかし、映画の冒頭で、ナレーターが「この映画は実話(トルゥー・ストーリー)である」と幾度も強調したように、20世紀半ばの映画製作時には、三つの顔を持つイブは、信じがたい奇妙な話として受け止められた。

イブ・ブラックに変身したとたんに、ウィスキーをストレートで一気に飲み干し、慣れた手つきでたばこを吸い、下着のようなドレスで男と踊り狂う姿は、ピューリタニズムの支配下にあった当時の観客にはショッキングだったはずだ。
男女同権の思想が一般の人々に浸透しだしたのは、1960年代のウーマン・リヴ以降であるから、それ以前の1950年代においては「女らしさの神話」が健在であった。
現代的視点で見れば、羽目をはずして陽気にはしゃぐ派手好き女にしか見えないイブ・ブラックは、当時の観客にはふしだらな売女、地獄落ちの魔女の振る舞いと映ったことは間違いない。

どこかの修道院のモットーに忠実に生きるイブ・ホワイト夫人に対して、ミス・イブ・ブラックはその正反対の贅沢、不品行、反逆を地で行く。
夫と子供を捨てて、バーで男友達と淫らに飲み明かすイブ・ブラックは、公序良俗に反する、悪妻愚母の歩く広告塔である。
イブ・ブラックの良識とモラルへの破廉恥な反抗は、家父長制を主とする権力にねじ伏せれられた、一人の哀れな女の抑圧状況が生み出した現象を映し出すのにとどまらない。

この映画は、「女らしさの神話」が効力を持ちながら、既婚女性の職場進出の機運が高まったことによって、女性のジェンダーに対する意識が揺れ始めた1950年代という時代を象徴している。
イブ・ブラックの無軌道な行動様式は、普通の女性が無意識にやりたいと思っていても恐ろしくてできなかったことである。
映画の中の男たちや観客がイブ・ホワイトよりもイブ・ブラックにより大きな関心を寄せ、恐れながら惹かれるのは、人間の心の暗部への興味のためだけではない。ホワイトからブラックへの変身は、新しい女の時代、フェミニズムの到来、を告げる直前の時代の胎動を予兆させるからだ。

21世紀の今日から見れば、地味なモノクロのスクリーンに、淫らさも解放感も控えめに演技するジョアン・ウッドワードのイブ役がアカデミー主演女優賞に輝いたのは、製作、監督、脚本をこなしたナナリー・ジョンソンの凄腕に時代が共鳴したからである。
映画の中の男たちも観客も一体となって、心の中では、イブ・ブラックの出現を密かに期待していたからにほかならない。
イブ・ブラックは、一人の女の精神の分裂のみを示す現象ではなく、旧体制然とした男女役割分業に縛られた女性の行動規制とジェンダー・ロールに一石を投じた映画である。

「三つの顔のイブ」が魅力的なのは、男が本質的に妖艶な悪い女に弱いからだけではない。
個人の抑圧の解放のみならず、因習打破は、魅力あふれる悪い女の出現によって達成されることもある。
女はイブ・ブラックの出現によって、進歩する。
女を取り巻く男たちも社会も、悪い女の出番の後で二項対立を超えて進化する。
それだから男にとって悪女も時には必要である。
悪女によって世の中は変わる。フロイト博士の精神分析も、時代を超えて有効なのである。

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