ギリシャに消えた嘘


ギリシャに消えた嘘』(原題 The Two Faces of January
製作年2014年  製作国イギリス・フランス・アメリカ合作  配給プレシディオ   
上映時間96分    映倫区分G   
原作 パトリシア・ハイスミス 『殺意の迷宮』
スタッフ:監督 ホセイン・アミニ/製作 トム・スターンバーグ、ティム・ビーバン、エリック・フェルナー、ロビン・スロボ
キャスト: 
ヴィゴ・モーテンセン:チェスター/ キルステン・ダンスト:コレット /オスカー・アイザック:ライダル

DVD販売元: バップ オフィシャルサイト http://www.kieta-uso.jp/

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『ギリシャに消えた嘘』―男×女×男のラブ・トライアングル

                          清水 純子

『ギリシャに消えた嘘』の原題は、『一月の二つの顔』(The Two Faces of January)である。
「一月」 の英語表記は"January" 、ローマ神話のヤーヌス(Janus)にちなんでいる。
ヤーヌスは、二つの顔を前後に持ち、一年の終わりと始まりの境界線上に位置する一月の守護神とされる。

二つの顔を持つ 「ヤーヌス神」

原作者は、『太陽がいっぱい』で有名なアメリカのパトリシア・ハイスミス女史(1921-1995)である。

映画ファンならば、即座に 『太陽がいっぱい』の美女マルジュをめぐる、アラン・ドロン扮する野心家トム・リプレーと、モーリス・ロネの金持ちのぐうたら息子フィリップの三角関係を思い出すであろう。
『太陽がいっぱい』が、表面的には一人の女をめぐる二人の男のラブ・トライアングルを描いているように見えて、実はトムとフィリップの男同士の愛憎に焦点があることは、映画公開当時から55年の月日を経て暗黙の了解となっている。
フィリップとトムのソーシャル・クラスは、富の有無によって大きく隔たっているが、「ホモ・ソーシャルな関係」(同性愛的強い愛情を持ちながら、表向きは同性愛者と女性を嫌悪して排除する男性同士の閉鎖的関係)によって、互いに過剰に意識し、愛し、憎み合っている。
マリー・ラフォレ演ずる魅惑のマルジュは、二人の男がマスキュリニティーを競い合うゲームの商品にすぎず、主題は実は二人の男の濃密な心理的レスリングの展開だったのである。
その意味で 『太陽がいっぱい』 は、一般的な三角関係ではなく、一人の女をめぐって二人の男が構成する正三角関係の物語であった。

『ギリシアに消えた嘘』も『太陽がいっぱい』 を彷彿させる 女1 対 男2 の正三角形の葛藤を扱っている。
『太陽がいっぱい』 とは違って、ヴイゴ・モーテンセン演ずるチェスターとオスカー・アイザックのライダルは同世代ではなく、親子の年齢差がある。
キルステン・ダンスト扮する若妻コレットも、チェスターとは親子ほど年が違い、ライダルとお似合いの年頃である。
チェスターは経済力にものを言わせて若い美女コレットを妻にしているが、貧乏でも才気渙発の若者ライダルに、コレットが惹かれ出すのは時間の問題であった。

時は1962年、場所はギリシャの風光明媚なアテネである。
ニューヨークの裕福な旅行者チェスターと若妻コレットは、古代ギリシャの遺跡アクロポリスで旅行ガイドのライダルに出会い、コレットが案内を頼む。
自称イェール大学卒のライダルは、ハーバート大学考古学教授の父の葬儀に欠席、父とのわだかまりを解消できないままで
いた。
チェスターは、表向きは、洗練された富豪ビジネスマンに見えるが、実は詐欺師で、にせの債権を売りさばき、追手を逃れるためにアテネにやってきた。
遺跡見物の後、アテネ市内でライダルと連れの女子学生の4名でしゃれたディナーの後、豪華なホテルでくつろぐチェスターの元に探偵が押しかけてくる。
債権者を代表して取り立てを強行しようと銃で威嚇するその男は、チェスターともみ合って頭を打ち、死ぬ。
あわてたチェスターは、死体を運び出そうとしている最中に、コレットの忘れ物のブレスレットを届けに訪ねてきたライダルにでくわす。
男が酔っ払いだと勘違いしたライダルは、チェスターを手伝い、事実上共犯になり、旅券の偽造からクレタ島逃亡まで手を貸すはめになる。
ライダルは、逃げだすことができたのに、なぜかそうせず、最後までチェスター夫妻に付き合い、災難に見舞われる。
ライダルが美しいコレットを狙っていたことは確かだが、それだけではなさそうである。

アクロポリスをツアー・ガイドするライダルのセリフによって、ギリシア神話の英雄テセウスと父アテナーイ王アイゲウスのすれ違いの悲劇が語られる。
(Take a look at that view. Spectacular, isn't it? But it was here on the acropolis hill that some believe  Theseus's father king Aegeus looked out to sea, waiting for his son to return. See, Theseus had promised his father  that if he defeated the minotaur, he'd hoist a white sail on his ship as a tribute. But he was so excited to get back home, he forgot and he flew the same black sail that he set out with. Well, thinking his son was dead, the heartbroken king flung himself onto the rocks below.)
このラインは、実父を失ったライダルの現在の心境を映し出すと同時に、ライダルのチェスターへの父親像投影を予見する。
遺跡でチェスター夫妻を見つめるライダルに気がついたチェスターは、ライダルが美貌の妻コレットに目をつけたと思うが、ライダルは連れの女性に「いや、女性を見ているのではない、あの男ちょっと親父に似ているんだ」(Oh no, I was... I was looking at the guy that she was with. He reminds me of my father a little bit.) とはっきり言う。

物語は、表向きは美女コレットを奪おう、奪われまいとする男二人の死闘と嫉妬で彩られるが、コレットが抜けた後、二人の男の父子関係的愛憎は、ますます色濃くなる。
一人イスタンブールに逃亡後、裏切ったライダルによって、チェスターは命をおとすことになる。
しかし、チェスターは大嘘をついてライダルを救ってやる。

ここで冒頭の父王アイゲウスの死とチェスターの死、そして英雄テセウスの生還と疑似息子ライダルのアメリカへの生還が関連づけられて、ギリシア神話と映画内の物語がパラレルになっていることに気づかされる。 
『太陽がいっぱい』と同様に、『ギリシアに消えた嘘』でも男同士のホモエロティックな関係をほのめかす動作はない。
しかし世代の異なる二人の男の絆は、チェスターの言葉に明らかである― 「いつかわかる時が来るさ、ある朝、目覚めて鏡を覗いたら、君は俺とさほど違わない自分の姿をそこに見るんだ、希望も夢も指の間からすべり落としていった自分をね」 
(I don't expect you to understand now, but one day you're gonna wake up and you're gonna look in the mirror and you're gonna see someone who's not all that different from me. And you're gonna realize that every hope and dream you ever had has slipped through your fingers)。
チェスターは、父を見失って迷うライダルに対して、ホモソシアルな関係の構築において重要である家父長制の家長としての威厳と責任を自分の命に代えて示し、ライダルの生きる指針を与えたのである。

『ギリシャに消えた嘘』において、チェスターはヤーヌス神の前の顔、ライダルは後ろの顔を司っている。
二人の男はゲームの景品コレットが消えた後、女を排除した真のホモ・ソーシャルな関係を築きあげ、全うしたのである。

オスカー・アイザックのイケメンぶりは、アラン・ドロンの輝くばかりのダークな美貌にはおよばない。
キルティン・ダンストの金髪美女ぶりは、マリー・ラフォレの宝塚の花形男役のような謎めいた妖艶さに遠くおよばない。
それでも、アイザックもダンストも雰囲気のあるいい役者であることはまちがいない。
なによりもヴィゴ・モーテンセンの存在感がすばらしい。
ハンフリー・ボガードのフィルム・ノワールのヒーローのような陰翳と哀愁を漂わせて絶品である。

この映画のもう一つの主役は、背景となるアテネ、クレタ島、そしてイスタンブールの異国情緒である。
はらはらさせて楽しませながら、主人公たちと共に観光旅行に行った気分にさせてくれる。ヨーロッパが気に入って、移り住んだと言われる、原作者パトリシア・ハイスミスのあこがれが見事に表現された美しい映画である。

©2015 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2015. Oct 18.


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『太陽がいっぱい』のアラン・ドロン


『太陽がいっぱい』 (原題 Plein Soleil  1960年 仏伊合作)
監督ルネ・クレマン  脚本ポール・ジェゴフ&ルネ・クレマン
原作パトリシア・ハイスミス  音楽ニーノ・ロータ  撮影アンリ・ドカエ
キャスト:アラン・ドロン, リー・ラフォレ、モーリス・ロネ
DVD販売元:紀伊国屋書店、パイオニアLDC

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