母よ、

第68回カンヌ国際映画祭エキュメニカル審査員賞受賞
イタリア・アカデミー賞 ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
2015主演女優賞、助演女優賞受賞
カイエ・デユ・シネマ2015 ベスト 1

『母よ、』(原題Mia Madre)
製作年: 2015年   製作国: イタリア フランス   言語: イタリア語 
上映時間: 107分   配給: キノフィルムズ
スタッフ: 監督&製作 & 脚本 ナンニ・モレッティ
キャスト: マルゲリータ・ブイ:マルゲリータ、
ジョン・タトゥーロ:バリー、
ナンニ・モレッティ;ジョヴァンニ、
ジュリア・ラザリーニ:アーダ
2016年3月12日(土)
Bunkamuraル・シネマ、新宿シネマカリテ他全国公開
公式サイト http://www.hahayo-movie.com/



(C)Sacher Film . Fandango.Le Pacte . ARTE France Cinema 2015

『母よ、』――君死にたまふことなかれ

                          清水 純子

  
『母よ、』 は、ナンニ・モレッティ監督が自身の母を見送った経験の映画化である。
映画は、男性であるモレッティのジェンダーを女性マルゲリータに仕立て直したうえで、モレッティ自身が彼女の兄役を演じている。
モレッティ映画の常連であり、ミューズである女優マルゲリータ・ブイにモレッティ自身を演じてもらった理由について「私が主役を演じるよりマルゲリータ・ブイが主役の方がはるかにいい映画になるからです。彼女は私よりはるかに優れた役者ですからね」(『プレス・シート』「Production note ナンニ・モレッティのインタビュー」)とモレッティは謙遜する。

役割チェンジをマルゲリータに課した本当の理由は、かけがえのない母の喪失に対するモレッティ自身の複雑な心理状況を反映していることがインタビューから伝わる。
モレッティは、「映画は個人的な告白ではないのです。ショットやフレーム、選択肢、演技があって、実際の人生とは違います」と言いながら、「時がたてば心の奥から自分が引き出されることに慣れるだろうと考えていました」と告白し、他の映画作品においても「自分自身について話していました。(中略)どれくらい自伝的か測りたいと願うことより重要なのは、一つ一つの物語に関して個人的なアプローチをとることです」と矛盾した発言をしている。
モレッティは、「私は仕事や母親、娘に関するままならない気持ちを女性のキャラクターの視点から描きたかったのです」(Production note)と弁明する。
モレッティは、自分の母親を失うという誰もが必ず経験する普遍的出来事であると同時にきわめて個人的色彩の強い事柄を表現するにあたって、モレッティ自身を演じてほしいが、自分が剥きだしになるのはきまりが悪いという葛藤の解決策として女性の視点を選んだのではないだろうか?
自分から遠からず、近からずの距離感を保つための方策として、自分を安心して託せる女性ということで、気心の知れたマルゲリータ・ブイを抜擢したのであろう。

映画からは、モレッティの母親に対する強い愛と、強すぎるゆえにはにかんで少し隠しておきたい複雑な思いが感じられる。
女装してマルゲリータになっても、女性監督という職業が男まさりを要求されることを考慮に入れても、ヒロインからどことなく漂う男臭さは拭い切れていない。
亡くなった母の死に装束を洋服ダンスから選ぶところに女性らしさが見られる程度で、母に対する配慮や対応は息子のそれである。
もしマルゲリータが実在の女性であったならば、モレッティ扮する兄が早期退職を決意したうえで、母の食事をはじめとする日常生活の世話をこまめに焼いているのに対して、もう少し違った表情を見せるはずである。

娘というものは、どんなによくできた母親であっても、女性同士の批判や反発を持つはずなのに、マルゲリータはそれらの感情とは無縁に見える。
母が一定の年齢になれば別れを覚悟しなければならないのに、マルゲリータはまるで恋人の命を案じるように理性を失ってとり乱す。
病床に就いた母が、数歩歩くことさえできなくなったのを見て、自分のことのように嘆く。
その理由は、母がマルゲリータ、つまりモレッティの分身だからである。
女の子は、母に対して通常そこまでの思い入れや無批判の自己同一化はしないはずである。
ラテン語教師として教え子から慕われる母を誇らしく思うのは当然だとしても、母の死を知らずにいつものように訪ねてきた壮年の男の教え子に「焼き餅を焼かないでくださいね、お母様は教師であるだけでなく、我々の母親でもありました」と言われるのも、娘であるならば奇妙である。
それにマルゲリータは、母の死に際して亡き父のことはまったく念頭にない。
これはやはり、フロイトの心理学でいうところのエディプス・コンプレックス(男の子は母親を異性として愛し、無意識に父に代わって母親を手に入れようとする)的傾向の表れではないだろうか。

マルゲリータをカトリーヌ・ドヌーブ似の美人女優に演じさせても、「女性のキャラクターの視点から描きたかった」というモレッティの意図は100%成功しているとはいえない。
いかに巧妙に女装しても、マルゲリータが娘でなく実は息子であり、モレッティが仮面を被った顔であることを隠しきれていない。
しかし、モレッティの頭隠して尻隠さずの不完全な女装は、モレッティの母親への真摯な思いへの照れ隠しであるから、それゆえにいとおしく、一層の共感を呼ぶ。

大家族主義、家父長制、カトリックの支配という昔のイタリアのイメージに反して、モレッティの描く世界は、核家族、男女平等の支配する21世紀イタリアの都市生活である。
そしてマルゲリータの作る映画は、常に弱者である労働者の立場に立って社会を批判する視点に立つ。
マルゲリータ監督は、失業、離婚、社会不安など現代イタリアが抱える問題を大衆に訴えることに余念がない。
しかし、公人としてのマルゲリータの顔の下には、一個人として抱える問題――離婚した夫に預けた娘の心配、そしてなによりも死にゆく母の命の尊厳と敬愛―が大きく心にのしかかる。
マルゲリータは幾度も「母は生きていたいのです。ただそれだけです」と言う。
ラテン語教師としての母の研究と教育の成果は、死によって無になると懸念するマルゲリータの声には、創造力豊かな映画人の息子である自身の姿が投影されている。
厳しくけわしい人生を戦って死に瀕した母へのモレッティの言葉はただ一つ――「君死にたまふことなかれ」である。
この言葉は、母の血を受け、母の分身として、母同様に、生みの苦しみと戦い続けなければならない映画監督が自身を励ます声にも聞こえてくる。

参考資料: プレス・シート『母よ、』 www.hahayo-movie.com.
キノフィルムズ/ポイントセット  2015年  

©2016 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2016. Jan. 16.
 


(C)Sacher Film . Fandango.Le Pacte . ARTE France Cinema 2015

50音別頁に戻る