ハンナ・アーレント

『ハンナ・アーレント』原題 HANNAH ARENDT
製作年度 2012年  上映時間 114分 製作国ドイツ, ルクセンブルク, フランス 映倫区分G
スタッフ
監督マルガレーテ・フォン・トロッタ /
製作ベティーナ・ブロケンパー/ヨハネス・レキシン/
脚本マルガレーテ・フォン・トロッタ/パメラ・カッツ/
キャスト
バルバラ・スコバ: ハンナ・アーレント /
アクセル・ミルベルク:ハインリヒ・ブリュッヒャー /ジャネット・マクティア:メアリー・マッカーシー /ユリア・イェンチ: ロッテ・ケーラー /ウルリッヒ・ノエテン:ハンス・ヨナ
公式HP:http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

(C)2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl,
MACT Productions SA, Metro Communicationsltd.

【ハンナ・アーレントについて】 •
ハンナ・アーレントは第二次大戦中、フランスのギュルス(グール)強制収容所を脱出してアメリカに亡命した。
1951年にアメリカ国籍を取得し、同年に英語による著書『全体主義の起源』を出版して哲学者として注目される。
プリンストン大学やハーヴァード大学で客員教授を務めた後、プリンストン大学初の専任教授に就任する。
1961年、アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴するためイスラエルに渡航し、1963年、アイヒマン裁判のレポートをニューヨーカー誌に連載。これが全米で激しい論争となった。
『イエルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告』として単行本化され、ホロコースト研究の最重要文献のひとつとなる。これにより政治哲学の第一人者となる。ハンナ・アーレントは思考している時にはいつも喫煙していた。(塚田三千代 記)

『ハンナ・アーレント』―凡人ゆえの悪
                              清水 純子

ハンナ・アーレント(1906~1975)は、ドイツにユダヤ系として生まれ、第二次世界大戦中にナチスの強制収容所を脱出してアメリカへ亡命した著名な女性哲学者である。

岩波ホールを初日(2013年10月26日)から満員札留めにした人気映画『ハンナ・アーレント』は、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンのイスラエルでの裁判を傍聴したアーレント(バルバラ・スコヴァ)の『ニューヨーカー』掲載記事「イェルサレムのアイヒマン」を中心に「悪の問題」を追及する。

アーレントの悪の定義がすぐれて斬新、現代的であるのは、SS(ナチス親衛隊)の命令通りに多数のユダヤ人を官僚的に殺処分したアイヒマンの行為を「20世紀に表れた人類共通の根源悪、思考停止状態の凡人ゆえの悪」と表現しえたところにある。
「野獣」、「凶悪」、「悪魔」、「怪物」とされたアイヒマンを、アーレントは「凶悪とは違う、ガラスの中の風邪気味の幽霊」、「アイヒマンには悪魔的な深さがない、彼は思考不能だったのだ」、「怖いほどの凡人」が「国家の忠実な下僕として法律である総統の命令に罪の意識もなく従っただけ」と評した。
アーレントのあまりに客観的で冷静な哲学的思考による表現は、多くのユダヤ系同胞の反感と敵意を生み、ナチス擁護と誤解され、イスラエル政府からは出版停止の脅迫を受け、大学からも辞職を要求される。

映画のクライマックスは、アーレントが世間から曲解された信念を大学内の講義の中で反論するシーンである。
学生に交じって着席する内外の圧力団体のお歴々に向かってアーレントは 8 分間のスピーチを展開する――「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました、それは思考する能力です。
その結果モラルまで判断不能となりました、思考ができなくなると、平凡な人間が残酷行為に走るのです。
過去に例がないほど大規模な悪事をね」(訳:吉川美奈子)。
アーレントは「私はこの現象をもって悪の凡庸と呼ぶのです」(“It is this phenomenon that I have called the banality of evil”)と力強く訴え、学生の拍手喝采を受ける。

ユダヤ教徒ではないが、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)にもキリスト教の日曜学校にも等しく学んだアーレントは、真のコスモポリタンであった。それゆえにその思想はアメリカをはじめとする世界各国に受け入れられ、尊敬されたが、ユダヤ的立場と見解から遊離していたため、同胞の憎しみを買った。ドイツ屈指のシオニストのクルト・ブルーメンフェルト(ミヒャエル・デーゲン)には「やりすぎ、イスラエルへの愛がない、君とはもう笑えない」と拒絶され、ハイデッカーの元で共に学んだ親友ハンス・ヨナス(ウルリッヒ・ノエテン)からも訣別を告げられ、アーレントはアイヒマンの件で大切な友人とユダヤ系の人々の支持を失った。
ナチ党員として反ユダヤ主義に加担したマルティン・ハイデッカーと愛人関係にあったこともアーレントへの風当たりを強くした原因の一つだったかもしれない。

アイヒマンをしてユダヤ人大量虐殺を可能ならしめた根底には、ドイツをはじめとする国々の一部で、ユダヤ人が人間でないとされていたことは明白である。
大学の講義で女子学生が「迫害されたのはユダヤ人ですが、アイヒマンの行為は人類への犯罪だと?」と質問すると、アーレントは「ユダヤ人が人間だからです」と答えている。ユダヤ系の人々が人間でないなどありえないことだが、戦前の一部の人々にはびこっていた偏見をアーレントはやんわりと指摘し、正しているところである。
アーレントの発言は人種問題を前提にしているのは明らかである。

それにもかかわらずアーレントは、ユダヤ人の問題を中心に据えないことによってユダヤの文化と選民思想の伝統だけにとらわれていない彼女の魅力をアメリカ人に向かってアッピールした。
しかしその反面、ユダヤ系の仲間たちの憎しみを買ったことも事実である。

「人間は考えることで強くなれる」という信念を持ち続け曲げることのなかったアーレントは、ユダヤ人が培ってきた被害者意識に囚われることなく、自己の収容所体験も超越した哲学的概念を構築する。
アーレントは自分をはじめとする同胞のむごい体験を客観視し、抽象概念にまで高める能力に恵まれていたからこそ、卓越した哲学者としての名声を勝ちえたのである。
アーレントの思考は、ニューヨーカー誌を読むハイ・ブラウ(知識人)を凌駕する透明で明晰な卓越したインテリジェンスの領域に達していたために、受け入れがたかったのだろう。

死後40年近く経て、時代はアーレントの思想に追いついた。
21世紀に生きる我々はアーレントの言うことを難なく理解できる。
機構に組み込まれ、無表情に無批判に仕事をこなし、思考停止状態のままロボットのように上からの命令に従う労働者を要求する21世紀は、アーレントの「凡人ゆえの悪」の危険に日常的にさらされている。

「根源悪とは人間を無用の存在にしてしまうこと」であり、アイヒマンが言うように「上に逆らったって状況は変わらない、抵抗したところで、どうせ成功しない・・・仕方がなかったんです、そういう時代でした、皆そんな世界観で教育されたんです、たたき込まれていたんです」(吉川訳)という言い訳が聞かれる時代に我々は生きている。
憎悪も人間的動機も伴わない、思考停止状態による無自覚、無気力、無目的な悪は、21世紀の不条理で不気味な凡人ゆえの犯罪の総体を語っている。

映画パンフレット
『ハンナ・アーレント』Hannah Arendt)、岩波ホール エキプ・ド・シネマ196、
2013。
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