反撥 & 袋小路


ロマン・ポランスキーの『袋小路』と『反撥』――美女姉妹の競演

                                      清水 純子

ポーランドのユダヤ系映画監督ロマン・ポランスキー(1933~)は、波瀾に満ちた半生を描いた映画『初めての告白』(2012)によって話題を呼んだ。ポランスキーはパリ生まれだが、3歳の時にポーランドに帰国したため、ナチス・ドイツによってクラクフのユダヤ人ゲット―に閉じ込められる。
母親はアウシュビッツで虐殺されるが、幼いポランスキーは九死に一生を得て各地を転々とする。
以後ポランスキーはアメリカ以外の各地で映画をとり、巨匠としての存在感を発信し続けている。
ポランスキーは公私ともに美人女優をはべらせることで有名である。
ポランスキー初期の1960年代の『反撥』と『袋小路』でもフランスの美女姉妹女優カトリーヌ・ドヌーブ(妹)と故フランソワーズ・ドルレアック(姉)を重用している。

『袋小路』(Cul-de-Sac, 1966):男のパワー・ゲーム

『袋小路』のF. ドルレアック


実業界を引退した初老のジョージ(ドナルド・プレザンス) は、11世紀の孤島の古城で若く美しい妻テレサ(フランソワーズ・ドルレアック)と自然を満喫していた。
そこへ逃走中の二人組のギャングのリチャード(ライオネル・スタンダー)とアルバート(ジャック・マクガウラン) が押し入る。
重症のアルバートが死亡した後、3人の奇妙な関係が始まる。
力ずくの侵入による閉塞状態の発生は、ポランスキーの映画に共通する一つのテーマである。
そこでは押し入った方も閉じ込められた側も同様にどん詰まりの袋小路の状況に追いやられる。
アルバートは、先住者の夫婦を威嚇して従わせているが、片腕を負傷したうえに仕事をしくじって見捨てられつつある。

ボスのカテルバッハに電話で救助を乞うが、らちが明かない。
意外に信心深いリチャードは、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』の登場人物のようにこの孤島で訪れることのない主人を待ち続けている。
一方、アルバートに侵入された本来の館の主人のジョージは、主導権を奪われ、妻テレサにあざ笑われる。

ジョージが去勢された状態であることはテレサにネグリジェを着せられ、メーキャップを施されて女装した状態のまま囚われの身にされることに象徴される。
本来社会的に有利な立場にあるはすの男たちは、力の強弱に支配されるために逆に不安定な立場に置かれる。
海岸の車の中に置き去りにされて動けないギャングのアルバートは、満潮によって命の危機にさらされる。
強者であったはずのリチャードは、犯されそうになったというテレサの嘘によってジョージに命を奪われる。
妻テレサのために殺人者になったジョージは、生きる支えであったテレサを若い男に奪われ、波間に孤立して座り込み、世をはかなむ。

『袋小路』で自由を得ているのは、力に固執することがないゆえに、力を愚弄できる女と子供である。
「フランスの売女」と軽蔑されるテレサは、美しい肢体によって男たちをかどわかし、城と島からの幽閉状態を自在に解き放つ。
突然訪れた知人によってリチャードは召使にされるが、この時も声高に命令するのはジョージではなく、テレサである。

知人が同伴する悪意の塊のような男の子は、大人の邪魔をして人間関係をひっかきまわすが責任を問われない。
注意されれば相手の指を噛み、レコードを傷つけ、ついに銃を乱発して貴重なステンドガラスを破壊するが、味方の大人によって保護される。
『袋小路』において人間関係の力学(パワー・ゲーム)によって袋小路的状況に苦悩するのは男である。
女と子供はその状況を作り出すことに関与しても、その影響からは自由なものとして描かれている。

『反撥』(Repulsion、1965):ブロンドの女サイコ

『反撥』のC. ドヌーブ

『反撥』はアルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』(1960)の精神病ノーマン・ベイツの女性版といえるが、『サイコ』以上の傑作であり、ポランスキーの天才を証明する。
美容院につとめる美女キャロル(カトリーヌ・ドヌーブ)は、姉ヘレンとロンドンのアパートに住む。
黒髪でおおらかな姉ヘレンは、妻帯者の恋人マイケルと隣の部屋で毎晩情事にふける。
姉ヘレンの官能のうめき声は、繊細で潔癖症の金髪の妹キャロルの性的嫌悪感と性的妄想を掻き立て、性への恐怖と渇望の葛藤からキャロルは次第に正気を失っていく。
『反撥』は怖い映画である。
なぜ怖いかというと、平凡に見える日常に潜む恐怖を描いているからである。
ポランスキーは、非日常的狂気の世界を描くにあたって日常的な世界のディテールを歪曲させて積み上げる手法を用いる。
観客が日常性から非日常性の境界線を自由自在に安全に行き来できるのは、リアリスティックで説得力ある映像の力である。
映画の最初のクレジット・タイトルの背景映像はキャロルのくるくる動く瞳であり、この映画はキャロルの第一人称の視点から語られることを示す。
さらに台所のケトルに映ったキャロルの顔はケトルのボディが丸みを帯びているあるため歪んで見え、この映画も歪曲された現実を映すことを暗示する。
キャロルの周囲は、ありふれた人々やものによって囲まれているが、キャロルの常軌を逸した精神状態を通すとそれらすべてが悪意に満ちた威嚇する存在に歪められる。
マイケルの持ち帰った調理用のウサギ肉は、身ぐるみを剥がれて生贄にされた胎児に見え、キャロル自身を象徴するかのようである。
一人で留守番をするキャロルは、そのウサギの頭をもぎとってバッグに入れて不気味な肉片に、残りのウサギ肉は室内に放置して蠅のたかる腐乱死体に変形する。
猥雑な外界から守ってくれるはずのアパートの壁のわずかな亀裂はキャロルの目の前で音を立てて裂け、隙間から無数の手が出てきてキャロルの乳房をまさぐり犯そうとする。
ヘレンの寝室でヘレンの服を盗み見するキャロルに向かって鏡は亡霊のような男の姿を映し出し、ネグリジェのキャロルをレイプする男とキャロルが歓喜のうちに淫らに迎え入れるたくましい黒人男が待ちかまえる。

これらの悪夢は実像のように見えるが、キャロルの性的恐怖と願望の歪んだ精神の反映である。
通りを横切る3人組の大道芸人の一人は常に後ずさりして歩くが、この奇妙な光景もキャロルの現実と幻想の反転した意識がとらえた姿だとみなせる。
キャロルはハンサムな求婚者コリンが心配のあまり扉を破って侵入したため、
威嚇行為とみなしてナイフで切り裂き、死体をバスタブに沈める。
家賃の督促に訪れた管理人もキャロルの色香に迷ったため、同じく始末される。
キャロルにとって侵入する男は理由のいかんを問わず、自分を脅かす存在として位置づけられる。

しかしそれにもかかわらず、キャロルは姉の恋人マイケルのシャツを捨てる前にその匂いを深々と嗅ぐ。
キャロルの男性への病的に屈折した好奇心と恐怖の原因を映画は明示しないが、ブリュッセル時代の家族の写真が幾度も登場し説明されていることから、キャロルの病根は幼少時に受けた家族の男性による性的虐待にあるのではないかと想像させる。
キャロルを侵略する男の幻覚は実は過去に実際に起こった記憶の再現なのかもしれない。
トラウマから立ち直れないキャロルは、誤った自己防衛本能によって欲望を不自然に抑圧し、性的意識を狭い歪んだ檻に監禁しつづけた囚われ人である。
キャロルは食されることなく腐ってひからびる「かわいそうなバニー(ウサギ)」である。
ポランスキーの映画の多くに共通する特徴は、侵略者と侵入されるものの力関係、監禁による閉塞状況、確かな日常が突然崩れていく恐怖、現実と悪夢の混在など20世紀以来の不条理に基づくテーマである。
天才ポランスキーの出現は、ナチスのユダヤ人大虐殺という不条理にまで高まったあまりに不幸な体験が基盤になっているのだろう。
しかしキャロルとはちがってポランスキーは、表現者としてトラウマを見事に芸術に昇華させたのである。

姉ドルレアックと妹ドヌーブの美女姉妹は、ポランスキー初期映画のミューズである。
ドルレアックは25才で自動車事故で亡くなったが、ドヌーブは躍進し続け今やフランス映画界の重鎮である。
繊細さと演技力ではドヌーブに軍配が上がるが、スタイルのよさと現代性ではドルレアックだと評価する向きもある。
この二つの映画はイギリスが舞台なので英語が話される。美人女優姉妹は外国人という設定だが、英語はかなり流暢である。
国際的に脚光を浴びるためには、英語が武器になることを若い人々に教えてくれる映画でもある。
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文献:
Wexman, Virginia Wright. Roman Polanski. Boston: Twayne Publishers, 1985.

DVD::
『反撥』(Repulsion).監督:ロマン・ポランスキー、
出演:カトリーヌ・ドヌーブ、イヴオンヌ・ブルノー、イアン・ヘンドリー、
1965年、角川書店、2013年
『袋小路』(Cul-de-Sac). 監督:ロマン・ポランスキー、出演:フランソワーズ・
ドルレアック、ドナルド・プレザンス、ジャクリーン・ビセット、1966年、角川書店、2013年
『初めての告白』 監督:ローラン・ブーズロー 出演: ロマン・ポランスキー、角川書店、20113年
       

 メガホンをとるR.ポランスキー監督


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