ジャッキー ファーストレディ 最後の使命 (横田)

(C)2016 Jackie Productions Limited


『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』

🔶🔶🔶 壮麗なるも単調🔶🔶🔶

                            横田 安正

 

アメリカのみならず世界に新しい息吹をもたらしたジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたのは1963年、就任後わずか3年のことであった。筆者は暗殺現場を訪れたことがあるが、それは変哲もない見晴らしのよい倉庫街で、スナイパーにとっては格好の地形のように見えた。こんな場所を大統領が無蓋車で通るなどは無謀きわまることで、背後には複雑な政治的事情があったことを匂わせていた。

しかし、この映画は暗殺にかんする映画ではない。最愛の夫を失ったジャックリーヌ・ケネディの苦悩に満ちた心情を、暗殺から葬儀までの4日間に絞って描いたものである。
彼女は夫を偉大な大統領として後代の記憶に残すため壮大な葬儀の行列を企画、実行する。
シャネルのスーツに身を包み、壮麗なホワイトハウスを逍遥するナタリー・ポートマンはあくまでも美しく哀しい。頭を粉々に粉砕された夫の顔を膝の上に抱き、返り血を浴びて絶望の叫びを発してから4日間、嵐のような時間を気丈に振るまったジャクリーヌとは何者なのか?

企画の段階では「ブラック・スワン」のダーレン・アロノフスキーが監督する予定であったが、事情により製作にまわり、監督はチリー出身の新進監督パブロ・ララインとなった。(彼は2012年、ピノチェット独裁政権を描いた「NO」で名をあげた) この監督の交代がこの映画に決定的な影響を与えたようである。

筆者の私見だが、映画界には2種類の監督がいる。映像で物語ることが出来る監督と、脚本を映像に翻訳する監督である。前者は脚本を一度内面化し、咀嚼してから、映像という全く別の次元で表現する。一方、後者は文字面を機械的になぞって映像にしてしまう。こうした「文字離れ」していない監督を、日本においてはタテ・ヨコ監督と筆者は呼ぶ。
日本映画の脚本は基本的に縦書きなので、それを横に流れる映像に翻訳するという意味である。同様に西欧においてはヨコ・ヨコ監督ということになる。残念ながらラライン監督はヨコ・ヨコ監督といわざるを得ない。ジャクリーヌの悲痛・悲壮な心情にたいする監督の思い入れは分かるのだが、観客を巻き込むまでには至っていない。

不協和音をともなった重苦しい音楽で孤独の中で闘う女の心情をカメラはひたすら追い続ける。老神父との生きる意味についての宗教談義にいたるまで彼女の心の奥に迫ろうとする。そして映画の大半はナタリー・ポートマンのアップの連続であり、観客はその圧迫感に耐え続けることを強いられる。この押し付けがましさがこの映画の最大の弱点であることにラライン監督は気づいていない。

「レオン」で中年の殺し屋(ジャン・レノ)と組む12歳の少女を見事に演じてからナタリー・ポートマンは堅実に成長を重ね、「ブラック・スワン」では見事アカデミー賞主演女優賞を受賞した。今回も生前のジャクリーヌの映像を研究し、発音・振る舞いにいたるまで役になりきったという。その努力と出来栄えは称賛に値するが、所詮映画とは映像の芸術、すべてが監督の生理、リズム感、美意識にかかってしまうのだ。

監督の最も大事な仕事はディテイルに最大の注意を払いながらも、常に全体の時間の流れを意識する想像力を持つことである。「ジャッキー」は90分に満たない映画なのに筆者は3時間の作品に感じてしまった。


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©2017 A. Yokota. All Rights Reserved. 11 April 2017 .

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