華麗なるギャツビー

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『華麗なるギャツビー』(原題The Great Gatsby)
監督 バズ・ラーマン/ 脚本バズ・ラーマン,クレイグ・ピアース /原作 F・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』 /製作 ダグラス・ウィック、バズ・ラーマン、 ルーシー・フィッシャー/音楽 クレイグ・アームストロング/ 撮影 サイモン・ダガン/上映時間 142分 / 製作国 アメリカ/ 配給ワーナー
キャスト:
レオナルド・ディカプリオ :ジェイ・ギャツビー
トビー・マグワイア: ニック・キャラウェイ
キャリー・マリガン: デイジー・ブキャナン
ジョエル・エドガートン: トム・ブキャナン
アイラ・フィッシャー: マートル・ウィルソン
ジェイソン・クラーク:ジョージ・ウィルソン
アミターブ・バッチャン: マイヤー・ウォルシャイム
エリザベス・デビッキ: ジョーダン・ベイカー
公式HP:http://www.gatsbymovie.jp/


華麗なるギャツビー』―滅の美学
                             清水 純子

スコット・フィッツジェラルド(Scott Fitzgerald)の小説の映画化『華麗なるギャツビー』(The Great Gatsby) は、空前の好景気に沸くアメリカの富裕階級の光と影を描いている。
土地と株の投機に沸くアメリカ社会は、もっと裕福にという欲望が充満していた。
貧富の差は広がるいっぽうだが、金持ちは、道楽にふけり、つかの間の繁栄を謳歌していた。

ジェイ・ギャツビーは、1929年の大不況直前の退廃的繁栄のもとで大きな夢を実現した。
密売酒販売と株式市場の操作によって巨万の富を築いたギャツビーは、経済的にはアメリカン・ドリームの体現者であり、光のあたる場所にいたはずである。
それなのにギャツビーは、一人の女への報われない愛のために顧みられることのない影の存在に戻って短い生涯を閉じる。
ギャツビーの栄枯盛衰は、アメリカの富による階級格差のひずみぬきでは理解できない。

小説は冒頭で、ニック・キャラウェイに「人間は公平に生まれない」と語らせているが、映画の視点も小説同様ニックに負っている。
ニックは、ギャツビーの隣人であり、唯一の理解者であると同時に物語の語り手である。
大恐慌をはさんで光と影を体験した1920年代アメリカを象徴する男ギャツビーの華麗で破天荒な生き方の意味づけをするのは、ニックである。

しかし、ギャツビーと同じ空間と時代をわかちあったニックは全知の語り手ではない。
原作とは違って、映画の冒頭でのニックは、治療のために回想としてのギャツビーの物語を精神病院において執筆するという設定になっているため、全面的信頼をおけない「あてにならない語り手」としての役割を強調される。
つまりニックの語るギャツビーを含む内枠の物語とそのニックを含むその外枠の物語を鑑賞することを許される映画の観客には、ニックの視点を批判する自由が与えられている。

『華麗なるギャツビー』は、語り手を置くことによって重層的見解、特にアンビヴァレンス(両面価値)を可能にする。
映画において全知の座に居座るものがあるとすれば、それは道路の看板に描かれたT.Jエックルバーグ博士の監視する目である。
博士のメガネをかけた巨大な目は、デイジーのひき逃げの罪を見逃さない裁きの神の厳しい視点を提供している。

この物語がみかけほど単純でないのは、複眼によるアンビヴァレンスを許すつくりゆえである。
連日連夜、豪邸を開放して、無数の紳士淑女を招いてパーティに明け暮れる謎の実業家ギャツビーの隠された目的は、美しい令嬢デイジーの心を取り戻すことにあった。
良家の御曹司トムの妻になったデイジーをあきらめきれないギャツビーは、デイジー獲得のために大金持ちになって再登場する。

しかし成り上がり者、偽紳士の正体を暴かれたギャツビーは、デイジーを得られないばかりか、逆にデイジーが起こした交通事故の加害者として身代わりになって殺される。
世俗の垢にまみれた外見に似合わず、最後までデイジーの愛を信じて死んでいくギャツビーの純情と気高さに対して、上品にふるまいながら罪をなすりつけ消え去るデイジー一家、つまり上流社会の人々の薄汚い偽善的行いが対照的に描かれる。

ニックは、アメリカの基本的概念「すべての人間は平等に生まれる」は、まやかしであることをギャツビーの悲劇を通して訴える。
ギャツビーは、頭脳、知性、勇気を備えた好男子だが、無産階級に生まれたために有産階級の美女デイジーを得られなかった。
逆に言うならば、ギャツビーはデイジーが自分の属する階級とは異なる良家の子女であったために命がけで惚れたと考えることもできる。

ギャツビーのデイジーに対する恋は、男女の恋愛の枠を超えて労働者階級に属する者の資本家階級への上昇志向を裏付ける。
英国とは違って王侯貴族を持たないアメリカにあって、定められた階級は存在せず、富の力が階級を決定するように見えるが、自由と平等をうたうこの国でも実は血統が重要なことがわかる。

ギャツビーの性格付けは、光と影の二重構造によってなされている。 
無産階級という影の存在から光の当たる有産階級へのしあがったギャツビーだが、ギャツビーの階級上昇の推進力になった富は、影の力である闇ルートによって築かれたものである。

ギャツビーは本来輝かしいものであるはずの愛のために、犯罪に巻き込まれ、再び影の存在に逆戻りして葬られる。
閑散とした豪邸のプールで射殺死体になって浮かぶよりどころのないギャツビーの遺体が、アメリカン・ドリームの無残な終焉を物語る。
デイジーをはじめとしてギャツビーに群がり、その富を食い散らかして逃げ去った上流階級の横柄さ、心なさが苦い残像として観客の網膜にシニカルなタッチで焼き付けられる。

しかし、観客は、デイジーの罪を被って死んだギャツビーに無私の愛の輝きを見る。
プラダやミュウミュウのデザインによる豪華で美しいドレス、ティファニーのジュエリー、ニックとギャツビーの着るブレザーとセーターはブルックス・ブラザー製、お伽の国のお城のように美しい建築と室内装飾が、アメリカの富と夢のすばらしさを語ると当時に、それらがすべて虚飾にすぎないことを巧みに暗示する。
時代の寵児、アメリカン・ドリームの達成者である輝かしいギャツビーは、一人の軽薄な金持ち娘のために滅びる。

しかし、それにもかかわらず、いやそれだからこそ、愛する者のためにすべてを捧げて満足しながら死んだギャツビーの究極の男のロマンは、アメリカ男性ならではの純白のイノセントな光華を放つ。
大恐慌とともに消えた花火のように危険で美しく、虚勢に満ちた1920年代アメリカに、ダイアモンドのように燦然と輝いたギャツビーは、滅びの美学という光をスクリーンから放ち続ける。

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