汚れなき祈り

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『汚れなき祈り』原題După dealuri 英文タイトルBeyond the Hills
監督: クリスティアン・ムンジウ  制作国ルーマニア  
言語:ルーマニア語  制作年:2012年 原案:タティアナ・ニクレスク・ブラン
出演:コスミナ・ストラタン クリスティナ・フルトゥル ヴァレリウ・アンドリウツァ   ダナ・タパラガ
日本公開:2013年3月16日
DVD販売元: 紀伊國屋書店 
公式サイト:http://www.magichour.co.jp/kegarenaki/intro-story.html      
第65回(2012年)カンヌ国際映画祭で女優賞と脚本賞をW受賞したヒューマンドラマ
[DVD]  Dupa-dealuri.jpg dupa-dealuri-(2012)-large-cover.jpg©)2012 Mobra Films

 『汚れなき祈り』―三種混合の誤算が招く悲劇

               清水 純子

『汚れなき祈り』は、ルーマニアの修道院で実際に起きた悪魔憑き事件を描いたタティアナ・ニクレスク・ブランの二冊のノンフィクション小説『デッドリー・コンフェッション(Deadly Confession)』と 『ジャッジズ・ブック (Judges' Book)』 に基づいた映画化である。

アリーナ(クリスティナ・フルトゥル)は、心身共に疲れ果ててドイツでの出稼ぎから祖国ルーマニアに戻った。
アリーナが頼れるのは、同じ孤児院で育ち、今は丘の上のルーマニア正教会で修道女として仕えるヴォイキツァ(コスミナ・ストラタン)だけである。
駅で再会したアリーナとヴォイキツァの長い熱烈な抱擁が、二人の女の友情が並みならぬことを知らせる。
ヴォイキツァは離れようとしないアリーナに、「皆が見ているわ!」と注意する。 
このせりふに「あれ?」と思う観客がいるはずである。
欧米では、愛しあっている者同士が再会して熱烈に抱き合うのは、奇妙なことではないという思いこみからである。
このドラマの伏線は、二人の女の抱擁シーンに表されている。「あれ?」の感覚が正しい。アリーナのヴォイキツァに対する思いは、友情の範囲を逸脱したレズビアンの愛なのである。

①愛の誤算
アリーナの誤算は、修道女になったヴォイキツァへのレズビアン・ラブが現在も有効だと思いこんだ点である。
アリーナとヴォイキツァのレズビアン・ラブは、思春期の少女の麻疹のようなものであり、成長後、修道女として神の愛だけに奉仕することを求められる現在のヴォイキツァに通じるはずがない。
しかし、俗世界しか知らないアリーナには、ヴォイキツァの変身ぶりが理解できない。
駅まで迎えに来てくれて、修道院に置いてくれたのに、愛を拒むヴォイキツァを、 男ざかりの神父(ヴァレリウ・アンドリウツァ)と寝たからだ、 神が自分たちの愛を引き裂いたのだ、とアリーナは邪推して嫉妬に たけり狂う。
アリーナは本気で神父と神を呪い、満たされない欲望はアリーナを狂気へと導く。
アリーナは、あたりかまわず大声で罵声を浴びせかけ、あばれてミサを邪魔するので、取り押さえられ、手足を縛られて監禁される。
修道女たちは、アリーナを悪魔に憑かれたものとみなし、渋る神父にエクゾシズム(悪魔祓い)の儀式をせがむ。

②教会の誤算
神父は、エクゾシズムに乗り気でなかったが、井戸に飛び込む自殺未遂後、病院で救急車に運んだが、治療のための入院を拒否され、ゆくあてもなく戻ってきたアリーナを追い出せない。
アリーナが教会の秩序と修道女たちの神への奉仕の精神を乱す悶着の種であることを見抜いていた神父は、かなり早い段階でアリーナとヴォイキツァに教会から出ていくように説得するが、うまくいかなかった。
病室が満杯という理由で精神病院から出されたアリーナは、駆け落ちをして教会から逃げることを持ち掛けるが、ヴォイキツァに拒まれる。
ヴォイキツァの修道院に留まる決意がかたいことを知ったアリーナは、所持金すべてを教会に寄付して自分もヴォイキツァと共に教会に居座る。
神父の当惑をよそに、アリーナはヴォイキツァと同じベッドで休み、ミサ中のヴォイキツァにつきまとう。
しかし、二人の女の間にレズビアンとしての行為はなく、神にも友にも善意と献身を示すヴォイキツァに神父もさからえない。
ある日突然、神の啓示を受けて、丘の上に教会を開くことを思い立ったこの司祭は、「異教徒立入禁止」、「神を疑うことなかれ」の看板を修道院の前に掲げる堅物だが、他人の助言に耳を貸し、思いやりも思慮もある人物として描かれる。
ふさわしい聖画がないために本山からの祝福を受けられず、経済的にひっ迫した中でやりくりする司祭は、好人物ですらある。
一週間以上にわたって食物も与えず、トイレも許さず、身体を拘束したあげく、衰弱して絶命寸前のアリーナを「悪魔祓いが成功した」と修道女と共に喜ぶ司祭は、非常識である。刑法にふれる行いを犯したことは事実である。
司祭は、司法局に収監される車内で、「悪意はまったくなかった、良かれと思ってしたこと」と弁解する。
司祭は、世間の常識において弁解の余地がないとしても、聖職者としての規律は犯していなかった。
教会の悪魔祓いは、「汚れなき祈り」に基づいたものであったことは疑いがない。
教会のルールに基づいた行いが世俗の法律を破ったという矛盾に、キリスト教の教えをうけた観客は少なからずショックを受ける。
丘の上に立つ教会は、時代錯誤なまでに前近代的環境と雰囲気に包まれている。
荒涼としているが美しい自然に囲まれたルーマニア正教のこの教会には、電気もガスも水道もない。ろうそくの火をともし、まきを割って煮炊きをして、井戸水を汲み上げて修道女たちは生活する。井戸があるからアリーナの自殺も可能性があったのである。
観客は、映画の背景が中世か、あるいは大戦中の物のない時代に設定されていると錯覚する。
ところが「ネットで発表」という会話が突然出てくるので、これが現代の教会だと気づかされ、唖然とする。
世俗の文明から隔絶した環境の中で、俗人との接触を断って暮らす教会人は、感覚も思考も進歩を拒否しているように見える。科学からも物質文明からも断絶させられた中世のような教会環境で、人は無知と蒙昧を生育させる。これこそ、中世以来の悪魔や魔女が好んで忍び寄る世界ではないだろうか?

しかし、この「悪魔祓い」は、2005年に刑事事件に発展して世間を騒がせたルーマニアのモルドヴァの修道院での実話である。
21世紀の医学を用いても、完全治癒の方法が見つからない精神疾患を、悪魔払いによって解決できると考えること自体が驚きである。
「悪魔祓い」もおまじないの気休めレベルで行うのであれば、特に害はないだろうが、本気で信じて人を死なせてしまうとは想像を絶する無知である。
クリスティアン・ムンジウ監督は、無心に宗教に従う善人の陥る危険な罠に対する警告を発している。
『汚れなき祈り』(あの丘を越えて)は、宗教一色の閉ざされた世界を一方的に非難してはいないが、風刺批判している。

③病院の誤算
クリスティアン・ムンジウ監督の批判は、ルーマニア正教を中心とする宗教にだけ向けられているわけではない。
教会の行った「悪魔祓い」による悲劇の最大の原因は、病院の判断の誤りによるからである。
病室に空きがないという理由で、自殺未遂ののち拘束しなければならない状態で運ばれたアリーナを受け入れず、教会での回復が望ましいと帰してしまった病院の判断ミスが悲劇を招いた。
修道院の人々が、「悪魔祓い」をせざるをえなかったのは、病院が引き受けてくれないことを承知のうえの苦肉の策である。
行き場もなく、狂ったアリーナを道端に捨てることのできない教会側としては、それしか方法がなかったのであり、気の毒としかいいようがない。
警察に「教会は病院ではないのだから、医療行為はできない」と釘をさされるが、ではどうしたらよかったというのか?
病院としても、アリーナの状態がそこまで悪化すると予想していなかったのであろうが、他の患者を退院させてもアリーナを入院させるべきであった。
愛、教会、病院の三種混合による誤算、そして無知が招いたのが丘の上の教会にまつわる悲劇である。
アリーナも、ヴォイキツァも、神父も、修道女たち皆悪人ではなく、むしろ愛を求めて一生懸命生きてきた人々である。
悪意がないのに、無知による誤算が人々を罪に陥れ、不幸にしていく。

貧困が不幸の根本原因か?
しかし、この不幸の原因は、無知と誤解だけではないと推量される。
これらの不幸のおおもとにあるのは、貧困であろう。
映画内では、貧困について言葉では語っていないが、登場人物のすべてがお金がないことに苦しんでいる。
アリーナも、ヴォイキツァも、孤児院育ちなので、当然お金はない。
特にアリーナは、ドイツでの安い賃金でのきつい仕事に心身ともに傷ついて逃げるようにして帰国したのち、病を発症した。 
神父も教会に聖画を飾るお金がなくて、正式なルーマニア正教会の称号が得られないでいる。 
教会がガス、電気、水道がない状態なのも、金欠病のせいかもしれない。 
また病院も、入院患者で満室な施設を拡充するだけの余裕、つまり費用がない。
病院は、受け入れられない患者は断るしかなかったのだろう。
ムンジウ監督は、個人、団体、行政の判断ミスを積み重ねて描く。
しかしそれらの根底にある真の原因は、貧困であり、祖国ルーマニアの経済状態の悪さなのではないか。

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