レディ・ガイ(清水)


『レディ・ガイ』
監督:ウォルター・ヒル/ 出演:ミシェル・ロドリゲス、シガニー・ウィーバー、
トニー・シャルーブ、アンソニー・ラバリア、ケイトリン・ジェラード/
英題:THE ASSIGNMENT/2016年/アメリカ/英語/96分/カラー/シネスコ/
字幕翻訳:渡部美貴 / 配給:ギャガ・プラス(+ギャガ・プラスロゴ)/
2018年1月6日(土)新宿シネマカリテほか全国順次ロードショー/

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<STORY>凄腕の殺し屋フランク・キッチンは、「お前は敵を作りすぎた」とボスに抹殺されそうになる。銃撃戦で意識を失ったフランクは、見知らぬ安ホテルのベッドで目覚める。全身に巻かれた包帯を取って鏡の前に立った瞬間、彼は驚愕する。そこにいたのは、まぎれもない女。フランクは性転換手術を施されていたのだ。ベッドの脇に置かれたテープレコーダーを再生すると、女の声が。声の主は医者で、手術はフランクへの復讐を意味しているという。大切な《もの》を奪われ、女となった殺し屋は、銃と色気を武器に、復讐に立ち上がる―!


レディ・ガイ』――トランスジェンダーは女医のアート作品

                                     清水 純子

邦題 『レディ・ガイ』 は、 古い表現を借りれば 「女男」(おんな・おとこ) の意味である。泣く子も黙る凄腕の殺し屋ガンマンが、一寝入りして目覚めたら、なんと豊満なバストとヒップを持つ美女に生まれ変わっていたという話がこの映画である。

★変身物語?
『レディ・ガイ』 は、突然、本人の意志に反して、予期しない変身を強制されるという展開において、古代ローマの詩人オヴィディウス(Ovidius BC43-AD17)の 『変身物語』(Metamorphoses)を思わせる。オヴィディウス
ギリシア・ローマ神話を集大成したこの叙事詩では、人間が動物、植物、無生物に姿を変えられてしまう。人がなぜそのような目に合うのかというと、それは神々の気まぐれやわがまま、あるいは神罰のなせる業(わざ)である。
ひとたび神の怒りあるいは、好奇心を刺激した人間は、その罰として抗(あらが)う術もなく、神々が下した運命に甘んじるしかない。蜘蛛になった娘アラクレネ、鹿に変えられたアクタイオン、ナルキッソスの水仙への生まれ変わり、アネモネになって再生したアドニス等、数多くのエピソードが登場する。自分の意志に反して変身させられた者たちは、神々の欲望、嫉妬、虚栄心などの感情の発露の標的にされた生贄(いけにえ)、犠牲者なのであるが、変身によって死を免れ、形を変えることによって生き延びるともいえる。神の意図は、人間に対する嫉妬や怒りだけではなく、同情と救済の目的を持つ場合もある。罰を与えずに見逃すことはできないが、死なせるのは忍びないから、変形して、反省させて生かそうというわけである。
 『レディ・ガイ』において、『変身物語』の生贄の人間は男臭い殺し屋フランク・キッチン、怒りの女神は外科医ドクター・レイチェル・ジェーンである。フランク・キッチンが男から女への性転換手術をされた理由の第 1 は、フランクがレイチェル医師の弟をマフィアの命令によって殺害し、この女医の怒りを買ったからである。最愛の弟を奪われたジェーンは、フランクに死よりつらい復讐として、女性へのトランスジェンダー手術を決行する。理由の第2は、優秀な外科医であり、アーチストでもあると自負するレイチェルの実験への意欲と好奇心をフランクの肉体が喚起したからである。とびぬけて優秀で、独創的であるレイチェルは、その卓越した能力ゆえに同僚からねたまれて、奸計にはまり、医師免許書をはく奪された。
 しかし、女性への変身の日々を切実な思いで待つ、貧しい人々のために、闇で性転換手術を引き受けていた。トランスジェンダーの外科手術は、レイチェル医師にとっては、人助けであり、医師としての使命であり、そしてなによりも自分の研究の成果であった。男を誇るフランクのキャラは、レイチェルの創造意欲を刺激したので、レイチェルはフランクを使って実験をしたくなった。レイチェルは、フランクの雇い主のマフィアに大金を支払って、フランクを生け捕りにした後、フランクの肉体を女にするために切り刻んでご満悦である。神の御手を持つレイチェルのメスは、男フランクの肉体を完璧な女体に変身させた。第3の理由は、自分を神とみなす不遜なレイチェルは、『変身物語』の神々にならって、殺し屋フランクを変身させて再生させ、罪を清めようとしたのである。都合のいい言い訳ではあるが、怒りの女神レイチェルの慈悲心の表れが、性転換手術であった。

★トランスジェンダー手術は成功か?失敗か
美女に生まれ変わったフランクには、殺し屋としての過去を清算して、新たな人生を歩む自由が与えられた。しかし、レイチェルのフランク再生と罪の浄めの意図は挫かれる。女にされたことを恨んで復讐に凝り固まるフランクを変えることはできず、フランクは肉体が女になっただけで、心は男のままであった。フランクの獣性は変わることなく、かえって獰猛になってしまった。肉体を女に変えても、心を変えることができなければ意味がないことをレイチェルは知る。その意味で、レイチェルが認めるように、フランクの性転換手術は、「成功であり、失敗でもある」。

★復讐がテーマか?
ウォルター・ヒル監督は、この映画のテーマは「復讐だ。普通とは違ったやり方の復讐。復讐することに大きな喜びを感じる人がいることを描いている」(プレスシート)と語る。ドクター・レイチェルがフランクの女体への改造を思いたったのは、弟をフランクに殺された復讐ゆえである。髭と体毛、男臭さを誇るフランクが、麻酔が切れて眼をあけたらグラマーな美女に変わり、全身を鏡で見て、特に下半身を確かめて泣きべそをかく場面は、レイチェルの復讐の成果を物語る。その一方、フランクのマフィア一味と女医レイチェル殺しも、快適な男性としての地位を奪った連中への復讐である。マフィアはフランクに殺しを命じておきながら、「おまえは敵を作りすぎた。憎まれすぎた」とフランクを女医のモルモット用に売り払った恨みを晴らした。ところが、フランクの銃は、レイチェルだけ殺しそこねた。精神病院に収監されたレイチェルは、担当の男性分析医を学識と教養で愚弄したあげく、フランクのトランスジェンダー手術の腕前と手術の正当性を誇る。レイチェルの計算外は、フランクの心までは女に変えられなかったことである。男心を捨てられなかったフランクは、犯罪者であることもやめられなかった。フランクは、昔取った木根塚(きねづか)に任せて、女の姿で殺し屋ガンマンに生まれ変わり襲ってきた。レイチェルの復讐の失敗は、医学者としての野心と好奇心からフランクを殺さずに性転換手術にとどめたことによる。フランクの復讐の失敗は、言うまでもなくレイチェルを殺し損ねた点である。
 ところが最後の場面が明かすように、レイチェルもフランク同様、死に勝る復讐を受けた。精神病院の老女たちと浴槽に横たわるレイチェルの両手は、親指と小指以外は第二関節から先を失っていた。レイチェルは、自慢のメスさばきを永久に禁じられたのである、フランクが男としての機能を奪われ、元のセクシュアリティとジェンダーを取り戻すことができないことに相応する罰を受けたのである。その意味で、二人とも復讐によって命を失うことはなくても、それ以上の罰を受けていた。その意味で、レイチェルとフランクは、自分の犯罪行為に対する罰を十分に受けたことになる。

復讐のためのトランスジェンダー映画『私が、生きる肌』と比較   
 復讐のための性転換手術の映画といえば、 『私が、生きる肌』(La piel que habito、英語: The Skin I Live In、ペドロ・アルモドバル監督・脚本による2011年のスペイン映画)が知られている。原作はティエリ・ジョンケの小説 『蜘蛛の微笑』 だが、『レディ・ガイ』の数倍屈折した複雑なストーリーであった。『私が、生きる肌』 では、性別と親族関係、愛憎関係が入り乱れて、誰が誰の誰だったのか、誰が誰を本当は愛していたのか、憎んでいたのか、よくわからなくなっていく。登場人物のアイデンティティの混乱と愛憎のもつれは、アントニオ・バンデラス扮する天才的形成外科医ロベル・レガルのトレドの豪邸の秘密の手術室から始まる。ロベルは、娘を犯して発狂させた男に、復讐と自らの屈折した欲望を満たすため亡妻にそっくりにトランスジェンダー手術を施す。手術はうまくいき、女に変身したその男ベラとロベルは、恋愛関係になるが、結局ロベ
ルはベラに復讐のために殺され、故郷に戻ったベラは母に自分が男であったことを告げる。
 『私が、生きる肌』は、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)を公表したペドロ・アルモドバル監督・脚本によるので、男から女に性転換するトランスジェンダー手術そのものが重要だが、『レディ・ガイ』では、トランスジェンダーは、オヴィディウスの『変身物語』に見られるような復讐と罰、あるいは神の立場にある者のわがままと気まぐれ程度の意味しかない。『レディ・ガイ』のウォルター・ヒル監督は、トランスジェンダーは 「ストーリーには重要な要素だが、テーマではない。これは復讐を描いた映画だ。ダークファンタジーだ。トランスジェンダーが直面している現実とは、何の関係もない。(省略) この映画には現実のトランスジェンダーの考え方を否定したり、反論したり、揶揄している部分は一切ない。(省略)手術のシーンは、この映画にとって課題でもなければ、トランスジェンダー政策を支援するものでものない」(プレスシート)と言う。1970年代後半にデニス・ハミルが書いた原案Tomboyの「アイデアが気に入った」、「設定が奇抜なところが気に入った」(プレスシート)とヒル監督は述べる。 ヒル監督が映画化するまでに35年の月日が流れるが、その間「このアイデアが頭を離れることはなかった」(ヒル、プレスシート)と言う。逆に言えば、35年間待ったところに、つまりLGBTの世界的容認傾向を待つだけ時間を稼いだ点に、この映画の成功の鍵があるのではないだろうか?

★レイチェル医師とヒル監督のアサインメント(assignment
 『レディ・ガイ』 の英文原題は、The Assignment である。「アサインメント」は、「宿題、研究課題、割り当てられた仕事」という意味であり、果たさなければならない義務としての活動を表す。
 映画内レイチェル医師にとって、完璧な肉体上のトランスジェンダー手術が心に及ぼす影響を検証することが「アサインメント」であったことは疑いもないが、ヒル監督にとってもハミルの Tomboy (「お転婆娘」)の映画化は、自分に課せられた仕事だったに違いない。ヒル監督は、トランスジェンダーは、この映画の素材の一つであって、テーマではないというが、観客からみれば「復讐」よりも「男が女に変身した物語」の印象の方が強烈である。
 アルモドバル監督の 『私が、生きる肌』 は、『レディ・ガイ』より数年早い製作と封切りである。2012年に映画館で鑑賞した私は、「なんとも奇抜で一般の人には関係のない話である、LGBTの人特有の視点」という印象を持った。大学の教室で 『私が、生きる肌』 の話をしたら、男子学生は、あきれて苦笑いをする者が大半であった。はっきり言って 『私が、生きる肌』 は、早くうぶ声を上げすぎたのである。現在でもトランスジェンダーの手術は、驚きをもって迎えられるかもしれないが、以前よりは市民権を得ている。映画というフィクションの形をとるならば、リベラルな部類の一般観客には、許容できるテーマに成長した。その意味で、ヒル監督の宿題35年後達成は正しかったと言える。

★『レディ・ガイ』 独自の味付け――シンプルなプロット、アメリカン・カルチャー、マンガ、名優
 『私が、生きる肌』 を連想させる 『レディ・ガイ』 だが、独自の味付けをしっかり行っているために、違和感なく楽しく鑑賞できる。
 シンプルなプロット: 味付けのコツの一つは、「シンプルなプロット」にある。ヒル監督は、「プロトを削って、できるだけシンプルにした」(ヒル、プレスシート)と語るように、話が分かりやすく整理されているため、鑑賞しやすい。復讐する者と復讐される者の関係と動機付け、その立場の逆転というプロットの面白さ、医師と殺し屋の社会的立場とジェンダーの対比が鮮明である。濃淡のはっきりした、コントラストの明確なスクリーン上の提示は、観客を物語に引き込む。
 アメリカン・カルチャー: 天才的頭脳を誇るレイチェル医師は、教養も高く、精神病院収監中にシェイクスピア、ポーの文学書を読み漁って、たびたび引用している。レイチェル医師の慧眼(けいがん)は、19世紀のアメリカの作家エドガー・アラン・ポーを尊敬している点に表れている。数十年前までは、本国アメリカで異端者として隅に追いやられていたポーをレイチェル医師は、「アメリカ最大の作家」として賞賛する。ポーはこの映画のテーマである「ダークファンタジー」の祖である。トランスジェンダー手術中にポーの有名な詩 『大鴉』(オオガラス、The Raven)で繰り返される一節 “Nevermore”(「もはやない」)が表示されるのは、すぐれたダークユーモアである。芸術家をきどるレイチェル医師が、ポーの『詩の原理』(The Philosophy of Composition)を引用して、「アートは芸術家の衝動から生まれるものであり、社会的道徳や規律からは無関係」と主張するのも、レイチェルの狂気を巧みに象徴している。
 マンガ: 映画の場面転換の際に、まとめの形で人物を描いたマンガが現れる。モダンでコミカルなグラフィックノベルは、観客の気持ちを遊ばせて、ほぐす。グラフィックノベルを描くのが好きだというヒル監督は、「これは現実に日常で起こることではないと示唆するためだ」と語る。望まないトランスジェンダー手術は、現実には起こらないということを示して、観客の心をなだめる気遣いが働いている。
 名優:『レディ・ガイ』の成功を確かなものにするのに、名優たちの演技力と存在感を抜きにしては語れない。
(1)M.ロドリゲス。男から女に改造されるフランク・キッチンを一人で演じ切ったミッシェル・ロドリゲスの力量をまず評価しよう。いかつい、髭面(ひげづら)の荒くれ男キッチンから、豊満な美女へと無理なく変身したロドリゲスはたいした演技力である。日本の宝塚の男役は女性が演じているが、厚化粧と不自然な声音で男でも女でもない感じがする。しかし、ロドリゲスは、男であり、女でもある。メーキャップ術の進歩もさることながら、ロドリゲスのように自然に変身できる女優は珍しい。ただし男である時は場末の殺し屋、女に変わっても安酒場の売春婦まがいであり、ジェンダーに関係なく、社会的位置づけは変化しないのは納得できる。
(2)S.ウィーバー。ドクター・レイチェル・ジェーンを演じるシガニ―・ウィーバーが何といってもスゴイ! 大女優の貫禄と存在感は圧倒的である。この映画の屋台骨を支えたのは、シガニ―・ウィーバーである。この映画の本物のヒロイン???は、フランクではなく、レイチェル博士だったのではないだろうか? 極度に知能とインテリジェンスが高く、それゆえに逆に狂ってしまった女医の執念、知性、冷徹さと悲劇を、鋭角的に説得力をもって演じたウィーバーのおかげで、映画全体が引き締まって素敵に見える。特に利き指すべてを喪失して、無能力者に貶められ監禁されたレイチェルが、ない指を画面に向かって挑戦的に突き立てるラストは、圧巻である。無残な最期のはずなのに、レイチェルの姿はなぜか観客をスカッとさせ、カタルシスすら感じさせる。フランクに関しては誤った適用を行ったとはいえ、レイチェルのトランスジェンダー手術への信念と自信の男気(おとこぎ)が、画面いっぱいにあふれている。「レディ・ガイ」 は、表面的にはフランクのことだけれど、本当の「レディ・ガイ」は、天才的女医であり、マッド・ドクターでもあったドクター・レィチェル・ジェーンの男気にも似た信念と執念を顕示するために作られたとすら思わせる。

©2017 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2017. Dec.8.


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