ラスト・ナイト・イン・ソーホー

『ラストナイト・イン・ソーホー』
(C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED

原題:Last Night in Soho/ 2021年製作/115分/R15+/イギリス/配給:パルコ
スタッフ: 監督 エドガー・ライト/ 製作 ティム・ビーバン、ナイラ・パーク、エドガー・ライト、エリック・フェルナー/ 脚本 エドガー・ライト、クリスティ・ウィルソン=ケアンズ/
キャスト:サンディ-アニヤ・テイラー=ジョイ/エロイーズ-トーマシン・マッケンジー/ジャック-マット・スミス/ミス・コリンズ-ダイアナ・リグ/ 銀髪の男-テレンス・スタンプ 他/

『ラスト・ナイト・イン・ソーホー』―二つに引き裂かれた悪夢の世界 
                                 清水 純子

☆華やかだが裏で悪がうごめく60年代の魔界ソーホー
 デザイナーを夢見る18歳のエロイーズは、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション入学のためにロンドンにやってきた。田舎出で内向的なエロイーズは、1960年代のロンドンにあこがれているため、現代的な同級生となじめない。孤立に苦しむエロイーズは、学生寮を出てソーホーの古いアパートの屋根裏部屋に下宿する。家主の老女ミス・コリンズは、男子禁制と静粛を破ることにうるさい以外は親切に見えたが、エロイーズはこの部屋の鏡を覗いてから奇妙な幻覚に悩まされるようになる。鏡の中には、60年代のソーホーで歌手を目指す金髪の少女サンディが住んでいた。サンディは、マネージャーのジャックにスターになる夢の達成の足がかりだからと言われて、年寄り男相手の売春をさせられていた。舞台ではストリップまがいの猥褻なダンスを強いられ、この個室では数知れない男たちがサンディの前でブリーフを脱ぐ。エロイーズは、鏡をのぞくと自分の顔ではなくサンディが現れて、60年代の猥雑なソーホーの裏街へと牽引される。
 エロイーズは、ロンドンにやってくる前から幻覚を見る癖があり、他の人には見れない霊(スピリット)の存在を認識していた。ロンドンに出て失敗したあげく自殺した母も、エロイーズの部屋の鏡にたびたび出没して励ましてくれた。ところがソーホーに引っ越してから鏡には、母ではなく自分と同世代の美少女サンディが現れ、サンディを搾取した男たちの亡霊が鏡から這い出て、エロイーズにまとわりつく。サンディも男たちもエロイーズの前に顕現する(明らかに姿を現わす)だけでは満足せず、エロイーズを自分たちの生きた1960年代のソーホー地区のいかがわしい盛り場へと引き込む。どぎつくギラギラ光るネオンの下の悪魔の伏魔殿(ふくまでん)のようなソーホーの歓楽街で、堕落させられるサンディ。サンディが自分の姿と重なって悲鳴を上げるエロイーズ、しかしその瞬間、60年代の妖しいソーホーの街は消えて、エロイーズの屋根裏の下宿に場面は戻る。ほっと安心したエロイーズの前には、壁からうごめく声と手が伸びてきて、床からも年寄りの男たちの体が次々とせり出してくる。脱ぎ捨てる寸前のブリーフ姿で横一列にずらりと並ぶ年寄り男に悲鳴を上げるエロイーズ、その金切り声と共に場面は突如カレッジの教室に変わる。ソーホーの年寄り男たちの亡霊は、教室内にずらりと並ぶマネキンやトルソーの姿に化ける。場面の転換は、エロイーズが鏡に向かった時、睡眠状態になった時、あるいはエロイーズの意識が混線した時に起きているので、すべてエロイーズの脳内の状態にかかっていると想像される。
 何が現実で何が幻覚なのか? エロイーズがいるのは60年代なのか?現代なのか? それとも時代を超越したエロイーズの悪夢の中なのか? サンディは何者なのか? サンディはエロイーズの分身なのか? サンディの愛人のマネージャーのジャックはサンディに刺されるが、本当に死んだのか? 死んでいないとしても60年代と同じ姿で今ここにいるはずはない。エロイーズの後を付け回す老齢の元プレイボーイは、エロイーズの働く酒場に現れるが、若い姿でサンディの60年代にもいる。この謎の男は風紀取り締まりの警官だというが、車にひかれて重症を負う。これはエロイーズの幻覚なのか、それとも現在本当に起きていることなのか? どこまで現実でどこからが幻覚なのか、誰が本当にいて誰が亡霊なのか、何がなんだかさっぱりわからない構造の映画である。エロイーズの錯乱した意識が現実と幻覚を交互に観客に見せているのか? それとも霊(スピリット)にたぶらかされて、幻想の世界に引きずりこまれ、正気に戻りつつあるエロイーズは、悪霊に抵抗して現実に戻ろうともがいているのか? 

☆二つの世界に引き裂かれたエロイーズ
 18歳のエロイーズは、大学進学のためにロンドンにやってくる前から変わっていた。エロイーズは二つの世界に自己を引き裂かれた少女だったからである。

霊界と現世
 エロイーズは、幼少時に母を亡くしている。ロンドンでの生活に疲れた母は自殺するが、エロイーズに鏡の中から姿を見せて、見守り、応援する(とエロイーズは思っている)。母がいるのはあの世であり、エロイーズはこの世にいるので、鏡が橋渡しになって、霊界と現世がつながっていた(とエロイーズは感じていた)。エロイーズは、母の幻影(亡霊?)に励まされ、愛情深い祖母の元で順調に成長したが、エロイーズにしか見えない母の霊によって二つの世界に引き裂かれていた。エロイーズの幻視の特殊能力は、故郷で祖母に守られて暮らす間は、プラスに働き、エロイーズの孤独を癒し守ってくれたが、ロンドンに出て他人の中で暮らすうちに、母は姿を消して、その代わりにサンディの亡霊が鏡から過去へと手招きするようになる。

過去と現在
 エロイーズと同世代だが1960年代ソーホーに生きたサンディは、母とは違ってエロイーズにマイナスの作用を及ぼすようになる。歌手を目指した美少女サンディは、悪い男たちに騙されて、娼婦に転落していく。サンディに感化されて髪の毛もブロンドに染め、サンディの優れたファッションセンスをまねるようになったエロイーズの感性はとぎすまされ、デザイナーとしての才能が開花するが、サンディの身に起きたおぞましいできごとを追体験(他人の体験を作品などを通してたどることによって、自分の体験としてとらえること)したことによって、精神に変調をきたす。サンディのせいでエロイーズは過去と現在の区別がなくなり、60年代の悪者から身を守ろうとして、現在目の前にいる同級生に刃物をふりかざしたり、ソーホーを歩いていると突然60年代の妖しい歓楽街にタイムスリップして、エロイーズは見慣れない時空に迷い込む。60年代のカルチャーに親しんでいたエロイーズは、聞きなれたヒット曲やファッションの中にあって、現実の生活では想像もできなかった60年代の暗部を経験する。
 エロイーズは導き手サンディによって、60年代ソーホーの女性への性的搾取の実態を知る。若い女の肉体は商品価値があり、金を生み出すため、男たちが群がって吸血鬼のように若い生命を吸いつくす。世間知も力もない弱者の女は抵抗するすべなく、狩人である男によって、夢も命も奪われる獲物でしかなかった。

夢と現実
 ではサンディは、エロイーズを危機に陥らせる化け物なのか?というと結果的にはそうならなかった。エロイーズすら予知できなかったことに、若いサンディは過去に属していたが、サンディのなれの果ては、エロイーズの目の前に現存していた。サンディは幻覚から逃げ出ようとするエロイーズを滅ぼそうとするが、火事によってエロイーズは救われ、サンディは滅ぶ。火災は災害であり惨事だが、時として醜い過去を焼き払い、浄化する作用もある。『ジェイン・エア』のジェインが、ロチェスター邸の火事による屋根裏部屋の狂女の焼死から事態の好転を得て、最終的な幸福を得るように、エロイーズも運命の逆転をつかみ、本来の力を発揮する。エロイーズは、サンディの不幸を幻視したことによって、夢を現実にすることに成功したのである。
 その意味でサンディは、母の亡霊と同じく、あるいはそれ以上に、エロイーズを導いて守ったのかもしれない。60年代の美少女サンディの生贄によって現代のエロイーズは救われ、浮上した。エロイーズは夢を現実にしたことにより、二つの世界に引き裂かれる葛藤からひとまず脱却できたと考えられる。

☆映画のメッセージ
 町山智浩氏の映画解説(https://www.youtube.com/watch?v=0M0Q9Dk70zc&t=9s)によると、この映画は「まずサイコホラーだが、ミュージカルでもあり、SFでもあり、青春映画でもある。世界のカルチャーや流行の中心であった60年代ロンドンのソーホー地区の華やかさと怖ろしさの二面性、60年代の女性の性的搾取の実態を表す多面体の映画であるが、ふつうのホラーとは違って明るい未来を示唆して終わる」という。盛りだくさんのメッセージを含み、町山氏が言うように従来はないタイプの新境地を開拓した作品である。
この映画は見る人によって訴えるところも、感じるところも様々だということだろうが、筆者は、精神に異変をきたした少女の回復と精神的成長、その結果の社会的成功を語るアレゴリカルな(比喩、比喩的な意味を読みこむ)物語だと考える。
脳科学は、「幻覚」の中で最も多いのが「幻視」で、他の人には見えないものが見える症状であり、具体性のある場合が多いとする。幻視を体験する人には、それが幻視であると分かっている場合と全く分からない場合の二通りがある。また存在するものが実際の姿と異なって見える「錯視」、他人には聞こえない音が聞こえる「幻聴」などがあると教える。これらは、脳の異変による認知機能障害の一つだが、エロイーズもそういう状態(特に最初は半ば無自覚な状態)にあったかもしれない。 
この映画を亡霊談ととらないならば、エロイーズの過度の心理的ストレスが招いた悪夢の物語だと解釈できる。その原因は、新環境になじめなかったり、理想と現実の乖離であったり様々だが、一つには母親がロンドンの環境になじめず自殺していることも関係があるかもしれない。過去にあった事件の人物が自分の部屋に現れる現象を警察に訴えた時、「あなたの家族にスキゾフレニア(統合失調症)の人はいませんでしたか?」と質問され、エロイーズは否定するが、気づいていなかっただけかもしれない。エロイーズの家系には、神経的に弱いところがあるのかもしれない。でも、それだからエロイーズがだめなのではなくて、芸術家やアーティストは、現実の世界だけしか見れないタイプの人には不向きな職業なので、強味ですらあるかもしれない。夢を見て、目に見えないものを想像し、創造できる能力こそがすぐれたアーティストになりうる資質だからである。
エロイーズは、鏡が導く世界との関係を火事によって絶たれて、現実に戻ることができたので、狂気から免れてすぐれたデザイナーとして出発できるのである。悪夢に導くように見えたサンディは、エロイーズにとって「霊的啓示」(spiritual epiphany, ある事柄の本質・意味などについての霊感による突然の直観、洞察、ひらめき) の大切な役割を果たしている。またエロイーズのロンドン登場の最初から火事の惨事に至るまで、ずっと見守り助けてきた黒人青年ジョンがもう一人のエロイーズの守り神である。成長するエロイーズを鏡の中から一人では守りきれないと悟った母の霊(スピリット)が、若きサンディを鏡から抜け出させ、現在のロンドンにはジョンを配置したのかもしれない。霊の存在を信じるエロイーズは、霊に守られ、救われ、これからも二つの世界から得るエネルギーによって躍進することだろう。
©2021 J. Shimizu. All Rights Reserved. 28 December 2021

(C)2021 FOCUS FEATURES LLC. ALL RIGHTS RESERVED


最近見た映画 に戻る