ラスト・タンゴ


『ラスト・タンゴ』原題Our Last Tango/ Un tango más
製作総指揮:ヴィム・ヴェンダース  監督:ヘルマン・クラル  ニルス・ドゥンカー  ディーター・ホレス
製作:ドイツ、アルゼンチン合作
出演:マリア・ニエベス、フアン・カルロス・ロペス、パブロ・ベロン、アレフアンドラ・グッティ、フアン・マリシア、アジェレン・アルバレス・ミニョ
2015年/ドイツ・アルゼンチン/85分  言語:スペイン語
後援:アルゼンチン大使館、 セルバンテス文化センター東京
配給: アルバトロス・フィルム   提供:ニューセレクト
2016年7月 Bunkamuraル・シネマ他全国ロードショー
公式サイト http://last-tango-movie.com/

(C) WDR / Lailaps Pictures / Schubert International
Film / German Kral ilmproduktion


ラスト・タンゴ』-- 愛と裏切りの乱舞

                        清水 純子

☆ 暗い官能性が魅力のタンゴ
「タンゴ」という言葉について浮かぶイメージ、それは互いにつるのように巻きつき、からみ合いながら、激しく情熱的に踊る男女のゴージャスでセンシュアル(官能的な)フォルム(形、シルエット)である。
ドレスの裾を割って現れる長く、引き締まったばねのように跳ね上がる女の美しい脚、男に抱かれてのけぞるとこぼれ落ちるばかりの豊かな女の胸、黒いスーツを着て全身全霊で女を支えてかしずき、リードする男のたくましい腕と引き締まった足腰、男女の身体の美しさをコントラストをなして引き出すことにかけてタンゴにまさる舞踊はみあたらない。
タンゴの魅力は、その暗い官能性にある。
社交ダンスのような安心して見ていられる優等生的舞踊とは違って、タンゴが人を惹きつけるのは、その危ういまでに過激で一途な多情多感を連想させる乱舞である。

☆愛憎劇を踊るフアンとマリア
『ラスト・タンゴ』は、アルゼンチン・タンゴの伝説的ペア、マリア・ニエベスとフアン・カルロス・コペスの愛憎劇を描く。
この映画誕生のきっかけは、監督ヘルマン・クラルがブエノス・アイレスでマリア・ニエベスと会見して「この人を撮らねばならない」と確信したことに始まって、その数日後、フアン・カルロス・コペスの伝記を読んだことによる(プレスシート 『ラスト・タンゴ』「監督メッセージ」)。

マリアとフアンの情熱的で華麗なタンゴは、アルゼンチンのみならず、パリを始めとしてニューヨークのブロードウェイでの公演「タンゴ・アルヘンティーノ」(1980年代)も成功し、世界的に名声を博したが、1997年の東京公演を最後にペアを解消する。

マリア14歳、フアン17歳の時にブエノス・アイレスのミロンガ(タンゴのダンス会場)で出会った二人は、愛と別れを繰り返しながら50年の長きにわたって、伝説的名ダンサーとして共に踊り続ける。
1997年のコンビ解消は、マリアがフアンに捨てられたかのような印象を与える。
事実、マリアは、失意のうちに表舞台を去るが、タンゴしかないことを悟って、数年後、不死鳥のように甦る――「老いても私は舞台ではメス・ライオンなのよ」。
映画は、フアンとマリアの名コンビが、公私共に互いに深く愛し合いながら、最後には憎しみが愛に勝って、二人はうまくいかなくなったことを明かす。
伊達男フアンは、マリア以外の女性と次々と浮名を流し、女たちに厭きてマリアの力が必要になると、身勝手にも仲直りを申し出てすりよってくる。

家庭の安らぎを求めたマリアは、やさしい男性と愛し合っていたのに、フアンの復縁要求に屈して、元の木阿弥に戻ってしまう。
マリアは、結局、男性や家庭よりもタンゴをより強く愛したのだから、マリア自身の選択だったといえる。
タンゴを続けるために、幸福な家庭を持つことを断念したマリアだが、タンゴのブームはいつのまにか去っていく。
フアンも窮地に陥り、マリアとの離婚後、自殺未遂を企てる。
自暴自棄のフアンを救ったのは、20歳年下のミリアムである。
マリアに内緒でミリアムとの間に二人の娘をもうけ、結婚までしていたフアンに、マリアは胸をえぐられる思いを味わう。

二人の間は冷えきり、タンゴの演技中に目を合わすことも、笑顔を交わすこともなくなっていった。
それでもマリアとフアンのタンゴは、息がぴったり合っていたが、二人の仲を裂いたのは、妻ミリアムの「家庭をとるか?マリアをとるか?」の言葉だった。
この時もフアンは、卑怯にもマリアを捨てて、妻と家庭を選択する。
マリアほどの名手はいないことを知りながら、フアンにとっては家族が大切だった。
マリアは、仕事においてもフアンに再度、裏切られたのである。

☆男性の優位性が宿るタンゴ
タンゴは、他のダンス同様に男性のリードによって成り立つ。
女性はどんなに美しく、すぐれた技を備えていても、男性に従って、抱かれ、引きまわされ、すがって支えてもらわなければ踊れない。
タンゴの形式自体が男女の主従関係を反映している。
たしかに、マリアが、ゴミを漁った夕食しか食べられなかった極貧生活から抜け出せたのは、フアンとコンビを組んだからである。
アーティストとして才能があるだけでなく、実業家としても腕利きだったフアンがいたからこそ、マリアも世に出て、家族にも人並み以上の暮らしをさせることができた。
フアンあってのマリアであることは明らかだが、やはり男性は立場上強い。
才能あるアーティスト同士では、圧倒的に男性が有利であり、強者が思い通りにものごとを運べることは二人の例が示している。
フアンは、才能によって仕事も家庭も楽に得られたのに、マリアは二者択一を迫られた。
タンゴを選択したマリアは、インタビューの中で、子供を持たなかったことが心残りであることを隠さない。
華麗なタンゴを踊るマリアに賞賛はつきないけれど、女性アーティストの歩む道の厳しさに身がすくむ思いがする。

☆タンゴは甘く苦い男と女の味
暗い官能の激しさをタンゴによって表現するフアンとマリアは、激しい愛、裏切り、憎しみを芸術の形で昇華させる。
二人のタンゴの乱舞は、激しく狂おしい男女の愛憎を、暗く熱い情熱を、表象している。
『ラスト・タンゴ』の鑑賞後は、タンゴの表面的あでやかさに見とれてばかりいられない気分になる。
なぜならば、フアンとマリアの乱舞は、甘く苦い男女の複雑な関係そのものの味わいだからである。

参考資料
『ラスト・タンゴ』 プレスシート テキスト協力:落合有紀、ラティーナ編集部

©2016 J. Shimizu. All Rights Reserved.  2016. April 6 

(C) WDR / Lailaps Pictures / Schubert International
Film / German Kral ilmproduktion


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