マーティン エデン(清水)

 

『マーティン・エデン』
 2019年・第76回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。ルカ・マリネッリが最優秀男優賞を受賞

2019年製作/イタリア=フランス=ドイツ合作/ 原題:Martin Eden/ 配給:ミモザフィルムズ/字幕:岡本太郎/イタリア語・フランス語/129分/カラー・モノクロ/ビスタ/5.1ch/原作:「マーティン・イーデン」ジャック・ロンドン(白水社刊)
後援:イタリア大使館、イタリア文化会館、在日フランス大使館、アンスティチュ・フランセ日本/ 配給:ミモザフィルムズ/

スタッフ:監督 ピエトロ・マルチェッロ/原作 ジャック・ロンドン/脚本マルリツィオ・ブラウッチ、ピエトロ・マルチェッロ/

キャスト: ルカ・マリネッリ-マーティン・エデン役/ ジェシカ・クレッシー-エレナ・オルシーニ役/ デニーズ・サルディスコ-マルゲリータ役/ヴィンチェンツォ‣ネモラート-ニーノ役/カルロ・チェッキ-ラス・ブリッセンデン役/ マルコ・レオナルディ-ベルナルト・フィオーレ役/ピエトロ・ラグーザ-オルシーニ氏役/

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『マーティン・エデン』--アメリカン・ドリームからナポリタン・ドリームへ

                   清水 純子
                     
舞台をアメリカからイタリアのナポリへ移動
 『マーティン・エデン』は、アメリカの作家ジャック・ロンドン(1876~1916)が1909年に発表した自伝的小説である。サンフランシスコで生まれ、数多くの肉体労働を経て、『野生の呼び声』(The Call of the Wild, 1903)で作家としての地位を築いたロンドンは、世界各地を探検する冒険心旺盛な19世紀末から20世紀初頭を生きたアメリカの小説家である。 
 『マーティン・エデン』は、無学で貧しい船乗りマーティン・エデンが上流階級の令嬢エレナに恋したことをきっかけに、独学で売れっ子作家にのし上がるアメリカン・ドリーム達成の物語である。映画『マーティン・エデン』は、ジャック・ロンドンの小説の舞台をイタリアのナポリに移行し、主人公のエデン青年はイタリア語を話すナポリの人である。北部に比べて南部は貧困層が多いとされるイタリアの船乗りのマーティンは、無学無教養を絵に描いたような武骨な青年だった。しかしウィットに富んで、憎めない愛嬌があり、人の心をつかむ術に長けていた。マーティンは見かけによらない頑固者、言い出したらきかず、無銭で下宿していた姉一家の家からも作家志望の妄執のために追い出される。いくら書いて応募しても戻ってくる原稿の山、それでも挫けなかったマーティンは、小さな出版社の目にとまり、原稿が掲載されたのをきっかけに人気はうなぎのぼり、社会主義者の集会で演説をしたために扇動者として誤解される。不遇な時も愛を育んだエレナとの仲は、階級間格差、思想の違い、エレナの家族の反対にあって壊れるが、御殿のような家に住むようになったマーティンにエレナは復縁を申し出る。しかし、酔ってどろんとした目つきのマーティンは、エレナを汚い言葉でののしり拒絶する。名声と富を獲得したマーティンは、夢をすべて実現してしまい、追いかける目標をなくしてしまった。アメリカン・ドリームならぬナポリタン・ドリームを完璧に達成したマーティンは、夢見ていたステージに這い上がったのだが、成功者マーティンの目に映ったものは、空虚でとらえどころのない夢の残骸でしかなかった。

映画『ジャイアンツ』の成り上がりの悲嘆
 かっての理想の恋人エレナの前で自虐的にうそぶくマーティンは、映画『ジャイアンツ』のジェームズ・ディーン演じるジェット・リンクと重なる。テキサスの牧場主の美人妻レズリーを秘かに慕う貧しい牧童のジェット・リンクは、石油を掘り当てて大富豪になる。富と力を得たリンクは、自分のホテルの祝賀パーティのTV実況中継の元で、酔っ払って醜態をさらす。金の力によってすべてを可能にしたジェットだが、レズリーに近づくことはかなわなかった。ジェットの場合、アメリカン・ドリームを実現したけれど、本命の女性を得ることはなかったという点で観客の同情と共感を得る余地はある。
それに対してマーティンの憧れの女性エレナは、マーティンの名声に惹かれて復縁を迫る落ちた存在に成り下がった。マーティンには、もはや憧れる対象、手を伸ばして得たいと思う存在がなくなってしまった。夢を貪欲に追い求め、夢に到達しようと自分を叱咤激励して前進することのみが生きがいであり、自分の存在理由であったマーティンには、追うべき夢の消滅は自己存在の抹消に等しい。夢を食料として生きてきたマーティンにとって、夢が消えることは生命を失うことを意味する。夢見る冒険家マーティンの心は死に瀕しているともいえる。王侯貴族のような豪邸に、大勢の召使を抱えて住み、何を言っても許されるマーティンは、成功者の頂点を極めたが、夢を食べつくして消化した後、お腹も心も空洞になってしまった。『ジャイアンツ』のジェット、『華麗なるギャッビー』のギャッビーですら、手中にできなかった憧れの女性を残していたのに、マーティンには何も残されていない。見た夢は悪夢もバラ色の夢もすべてバクによって食べつくされ、消えた後のマーティンはどうなるのか? 希望と理想に燃えていた若い自分を思い出すマーティンは、再び船旅に出て世界を放浪するのだろうか?

エデンの園を追われたマーティン
 マーティンが夢を追って、夢によって動かされ、社会的に経済的に頂点をきわめるが、その末に追う夢がなくなって精神的に荒廃していく姿はきわめてアメリカ的である。映画の舞台がイタリアに移されていても、アメリカ的原作の構造が透けて見える。とどまることを知らない利益と理想の追求は、階級が元々存在しなかったアメリカ的現象であり、アメリカ的生き方の実践である。
 イタリアであればどんなに裕福に著名になっても、生まれながらの貴族階級がすでに存在しているので、成り上がったマーティンに頂上をきわめてもう行くつく先がないという閉塞感はないはずである。イタリアならば、次にマーティンが目指すのは、エレナでなくとも貴族階級の令嬢との縁組ではないか? ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』のように、名門シチリア貴族のサリーナ公爵の甥タンクレディは、美人で金持ちだが気品のない町人の娘アンジェリカと婚約する。豪華な舞踏会で人々の見守る中、公爵はアンジェリカと踊らざるをえない。その場に似つかわしくないアンジェリカのがさつな高笑いを背に退出した公爵は、貴族階級の没落と共に自己の老いを自覚する。もしイタリアであったならば、マーティンは、『山猫』の男版アンジェリカを演じることになったのではないか? 
 しかし原作は、貴族階級が存在しないアメリカなので、マーティンの夢は頂点に達して、雲の中に焼失してしまったのである。ここに階級と身分の差が存在しないアメリカ社会と、封建時代を経て貴族階級を埋蔵するイタリアとの構造的違いが存在する。階級格差が小さく、金力の差によって存在価値が決まるアメリカ社会でマーティンが追いかけたアメリカの夢は、富を得たとたんに消え失せてしまう。イタリアだったらそうはならなかったと思う。マーティンは、貴族階級の令嬢を娶り、芸術や文化の学びと保護を堪能する余生を送ったのではないかと想像する。あるいは、再び船旅に出ても、もっと豊かな気持ちで生きていけたのではないか? 21世紀のアメリカならば夢を食べつくした後にもまだデザートを食べる気分になるだろうが、20世紀初頭のアメリカではそこまでの余裕がなかったのかもしれない。
 神の命令に背いたイヴ役エレナのそそのかしによって禁断の果実、つまり知恵の木をむさぼり、神の手すら及ばぬ成功の高みに達したアダムのマーティンは、夢の園である「エデン」を追い出された。マーティンの苗字が「エデン」であることも暗示的である。しかしマーティンが芳醇な歴史を持つイタリアの青年であったならば、ナポリタン・ドリームを達成しても簡単にはエデンの園を追われることはなかったかもしれない。イタリアのエデンはアメリカの園より広くて知恵の木の実ももっと豊かにたわわになっているに違いないからである。アメリカン・ドリームは物質的成功を主軸にするため、成功しすぎたマーティンは頭がつかえて追うべき夢を見られなくなってしまったのである。

イタリア映画は素敵!
 主役マーティンを演じるルカ・マリネッリは、アラン・ドロンの再来というよりも、シルベスター・スタローンを思わせる。労働者階級出身で肉体労働に耐えてきたロンドンのタフな肉体を再現するためにトレーニングを積んだそうだが、たしかにごつい! 素顔のルカさんの方がイタリア青年らしい甘さと憂愁を感じさせて素敵である。でも自分とは違う存在を表現しえたルカさんの演技力は注目に値する。マーティンの恋人の令嬢エレナも庶民の娘マルゲリータもラテン系の美女で、自然な美しさが好ましい。マーティンを支える男優たちも芸達者で深みがあってさすがである。100年以上前のナポリの光景が再現されるが、イタリア映画は時代を超えて素敵である。


©2020 J. Shimizu. All Rights Reserved.23 July 2020

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