見つめる女

『見つめる女』(原題LA SPETTATRICE/ THE SPECTATOR )
2004年 イタリア制作  言語: イタリア語 時間: 98 分  劇場未公開 
DVD販売元: オンリー・ハーツ
スタップ: 監督パオロ・フランキ/  
脚本: パオロ・フランキ/ ハイドラン・シュリーフ /ディエゴ・リボン /
撮影: ジュゼッペ・ランチ /音楽: カルロ・クリヴェッリ /
キャスト: バルボラ・ボブローヴァ: ヴァレリア /アンドレア・レンツィ: マッシモ /ブリジット・カティヨン: フラヴィア/
キアラ・ピッキ: ソニア/ マテオ・ムッソリーニ:アンドレア

©2004 Paolo Franchi All Rights Reserved

見つめる女』-ーあいまいな孤独の心地よさ

             清水 純子
                         
『見つめる女』 は、 あいまいな孤独、つまり人間関係の距離によるその人なりの心地よさを描いている。
内容は、一人の男をめぐる二人の女の三角関係なのだが、ヒロインのヴァレリア以外は、三角関係であることに気づいていない。
ヴァレリアのアンドレアに対するストーカー的愛着がこのドラマの核にあったことを、身をひいたヴァレリアの告白の手紙によって恋敵フラヴィアは最後に知る。

英伊の同時通訳者である26歳のヴァレリアは、イタリアのトリノでルームシェアをしているが、向いの建物で犬を溺愛するイケメン・インテリ男アンドレアの姿を毎日窓から覗き見することが日課であり、秘かな楽しみであり、心の安定剤でもあった。
ところがアンドレアは、愛犬の死を契機に突然ローマに転居する。
死にかけた犬を抱えてタクシーを捜すアンドレアをヴァレリアは助け、またアンドレアの学会での同時通訳を偶然担当した際に、いつになくあがってしくじるヴァレリアだが、アンドレアはヴァレリアの存在に気づくことはなかった。
ヴァレリアは、あてもなく、発作的にアンドレアの後を追ってローマに行きつく。
ヴァレリアは、アンドレアの勤務先に忍び込み、彼が法学部教授の年配女性フラヴィアを求めてローマに移ったことを知る。
ヴァレリアは、フラヴィアの車と接触したことを機会に彼女の秘書になり、アンドレアとも知り合う。
アンドレアは、フラヴィアとより親密な関係を希望して同居を望むが、亡夫のことを忘れられないフラヴィアは距離を置こうとする。
失望したアンドレアは、ヴァレリアの存在にはじめて気がつく。
ヴァレリアが自分と同じはにかみ屋で孤独な人間であること、ヴァレリアが自分を追ってきたことを直感したアンドレアは、勇気を出してヴァレリアに愛を打ち明ける。
ところが、ヴァレリアは、歓びの涙を流してアンドレアに抱きつくが、そのままアンドレアを避けてトリノに帰ってしまう。
フラヴィアの元を引き払うアンドレア、トリノ行きの列車の中で自分がアンドレアゆえに意図的にフラヴィアに接近したことを詫びる手紙を書くヴァレリア。
最後の場面は、トリノのいつものプールで一人泳ぐヴァレリアの手紙形式の独白――「自分でも説明できないことだった。人にどう思われているか知るのは勇気がいる。
だから黙ってしまうの。私は彼の住んでいたトリノに戻ることに。彼を追いかけてあなたたちの生活に割り込もうとした。
水のような人生の中で私は時々泳ぐ自信をなくして浮かんでいる。
時間も試行も停止したみたいに。底まで沈むつもりはないけれど。
再び水面に顔を出す力も残っていない」で締めくくられる。

あいまいな人間関係に漂う浮草
『見つめる女』 は、ヴァレリアを軸に人間の孤独と自我との葛藤を描いている。
ヴァレリア、アンドレア、フラヴィアはあいまいな孤独と希薄な人間関係に浮草のように漂うと言う点で同類である。

A. ヴァレリア
ヴァレリアは、心理的に屈折した不可解な女性である。
たいして気にとめていないボーイフレンドとは気軽に性的アヴァンチュールを楽しむのに、待ち望んでいたあこがれのアンドレアが自分の方を向くと、こともあろうに逃げ出す。
アンドレアの姿を再び見たいためにすべてを捨ててローマに出向き、近づくためにあらゆる工作をした末の成果なのに、なぜ自分から棒にふるのか?
自分のいくじなさを悔いることなく、以前よりさばさばした気分で水泳を楽しんで「これでいいの」なんて感じになっている。
アメリカ映画ならば、積極的に動いて憧れのプリンスを手中にした女の子のハッピー・エンドに終わるはずなのになぜこんな結末になるのか?
その理由は、ヴァレリアの心、つまり閉ざされた、過保護の自我にある。
ヴァレリアは、さみしいのでルームメイトやボーイフレンドを持つが、濃厚で親密な本物の人間関係は怖い。
「人にどう思われているか知るのは勇気がいる。だから黙ってしまうの」と回想録形式で弁解するヴァレリアは、裸の自分を愛する人の前にさらす勇気がない。
本気で思っていない人々に突っつかれてもヴァレリアには大した痛手にはならない。
しかし、夢に描いたプリンスには、素の自分を見せる度胸がない、もし嫌われたら、失望させたら自分が立ち直れないからである。
またその逆に理想の彼の嫌なところは見たくもないのだろう、理想を奪われたら自分が傷つくからである。
ヴァレリアは、一種の「モラトリアム人間」(社会的心理的な葛藤を乗り越えておとなになることを先延ばしにしている状態)である。
ヴァレリアにとってアンドレアは、恋愛という名のオブセッションの具現化でしかなかったことになる。
思いがけず、アンドレアが自分の方を向いたことでヴァレリアの自尊心は満足して、勝ったままで終わりにしたかったのだろう。
それ以上の関係にすすむことは、ヴァレリアにとって理想が現実になって歪み、壊れることを意味する。
こんなのが本物の恋愛であるはずがない。
自分の顔がアンドレアという鏡にきれいに映っていれば安心している状態でしかない。
ヴァレリアのような自我の殻に堅く閉じこもっている女の子は、本物の恋愛はできないし、人間関係も築けない。
    
B.フラヴィ
中年後期の大学教授のフラヴィアは、インテリでエレガント、知性にも社会的地位にも恵まれた大人の自立した女性である。
自分を慕う年下の40歳の恋人アンドレアは、亡夫のいない隙間を埋める存在ではあるが、それ以上のものにはなりえない。
フラヴィアとの未来を夢見てさらに深い関係を築こうとするアンドレアにフラヴィアは同調しない。
フラヴィアにとって夫との思い出が一番大切であり、彼女のメンタリティは過去に固着して離れられないからである。
子供を産める年齢ではなさそうだし、もはや変化や心機一転には興味がない世代になっている。
フラヴィアにとって、亡き夫の美化された思い出と若い愛人との不定期で拘束されない関係の間を漂うのが心地よい。
フラヴィアも、ヴァレリアと年齢は違うが、同じくあいまいな浮草状態を好む。

C. アンドレア
女性であるヴァレリアとフラヴィアが浮草的人間関係を選択するのに対して、
男性のアンドレアだけが定着型の深い人間関係を望んでいる。
アンドレアは、愛犬の死によって強く感じた孤独を癒すためなのか、フラヴィアの元に向かう。
男性という有利なジェンダーにあるとはいえ、フラヴィアに接近し、うまくいかないと冷静に事態を分析する理性と、若いヴァレリアに愛を告白する勇気を合わせ持つ。
アンドレアも強すぎる自意識のために、とっつきの悪い、非社交的な男だが、自分の殻を破って愛する者の前では心を裸にして見せる度胸のある男である。
アンドレアは、二人の女性に比べて、人生を肯定的に生きようとする好ましい人物だが、どうしたことかいつも人生設計に対して臆病な女性を好きになってしまう。
「がんばれ」と観客が声援を送りたいのは、アンドレアだけではないだろうか?

★イタリア映画の洗練と心地よさ
『見つめる女』 は、ハッピー・エンドに終わらない、もどかしく、切ない話なのに、なぜか心地よく、満ち足りた気持ちにさせてくれる。

.その理由は、役者の質がよいからである
ヒロインのヴァレリアに扮するバルボラ・ボブローヴァは、つややかな黒髪、90度の角度の格好の良い鼻、大きな黒い瞳、すらりとした姿態を持ち、日本人にも違和感のない現代的美人である。
それに大げさでない繊細な演技でヒロインの複雑な矛盾した心境を上手に表現している。
レンツィ・マッシモ演じるアンドレアも魅力的である。イタリア男性らしいあかぬけた魅力的風貌のみならず、演技もさりげなく説得力がある。
はじめは、こわもての近づきにくい男に見えるが、女性に心を許すと少年のようなすがすがしい表情に変わるのがよい。
ブリジット・カティヨンのフラヴィアは、難しい役どころだが、おおらかで理知的中年女性の思慮分別を演じて成功している。
2次に構成がしっかりしていることが挙げられる。
ヴァレリアとアンドレアが心理的相似形にあることは、ストーン・ショップで二人とも「精神と感情を強固にする」効果があると信じられている青い石、ラブラドライトを購入していることから暗示される。
フラヴィアが、アンドレアとヴァレリアの両方から同じ石をもらって偶然すぎると驚くところがあるが、精神と感情の不安定さが二人の共通項であることを映画は冒頭であざとく語っていることになる。
カメラは、映画の画面をヴァレリアのアパートの窓枠からアンドレアのそれへと移動し、部屋で一人コップに手を伸ばすアンドレアから同じ状況のヴァレリアのショットを対比して映し出す。
ヴァレリアとアンドレアの行き違いは、二人を遮る珈琲店の柵によって交互に示す。
プールでのヴァレリアの告白を最後の場面にもってくることによって、ヴァレリアの浮草のような漂う状態とその心地よさを表現する。
シナリオも、自己の殻に閉じこもって他人との心理的距離を狭められない現代人を三角関係で巧妙に表している。
3.ぐれた色彩感覚
繊細で自然な色彩が映画の洗練度を高める。
画面は、黒、白、茶、ブルーを基調にした色づかいで、観客に不必要な刺激を与えない心地よい色使いである。   
古くはルネッサンスの発祥の地であり、現代は美術とファッションの都で知られるイタリアならではの高い美意識がこの映画にも自然に表れる。

『見つめる女』 は、地味な映画だが、不思議な説得力のある心地よい映画である。
イタリア文化の懐の深さを反映しているのかもしれないが、日本人にとっては違和感のない親しみを感じさせる。
「夢を叶えよ! 成功してえらくなれ!」 と声高に叫ばないところが癒しになっているのかもしれない。
付け焼刃でない深い文化に根付くイタリア映画は、日本人向きだと思う。
映画ファンよ、もっともっとイタリア映画を見つめよう!

©2015 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2015. Dec. 25


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