ニンフォマニアック

DVD:『ニンフォマニアック』(Vol.1&2)
販売元:バップ、2015年.原題NYMPH()MANIAC、監督&脚本:ラース・フォン・トリアー、
製作年:2013年、配給: マグノリア・ピクチャーズ,上映時間:117分(Vol.1)、123分(Vol.2)、製作国:デンマーク、ドイツ、フランス、 ベルギー、イギリス、言語:英語、R18+
出演 シャルロット・ゲンズブール:ジョー、ステラン・スカルスガルド:セリグマン、
ステイシー・マーティン:若いジョー、シャイア・ラブーフ:ジェローム·モリス、クリスチャン・スレーター:ジョーの父、ユマ・サーマン:ミセスH (Vol.1)、ウィレム・デフォー: L(Vol.2)、ミア・ゴス:P(Vol.2)
公式HP:http://www.nymphomaniac.jp/

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ニンフォマニアック』――解放されない抑圧
                                      清水 純子

デンマークの鬼才ラース・フォン・トリアー(Lars Von Trier)監督による『ニンフォマニアック』(NYMPH()MANIAC, 2013)は、「鬱三部作」の最後を飾る力作である。「鬱三部作」は、『アンチクライスト』(2009)、メランコリア』
(2011)、『ニンフォマニアック』をさすが、トリアー監督自身の鬱病治療の休業期間(2007年~2009年) の後から取り始めた作品群である。

『二ンフォマニアック/Nymphomaniac Vol. 1&2』は、路地に傷を負って汚れて倒れていたジョー(シャルロット・ゲンズブール)が、親切な初老の通行人セリグマン(ステラン・スカルフェルド)に救われ、彼の自宅のベッドでニンフォマニア(女性の色情狂)としての男性遍歴を告白するという筋立てである。性的欲望が抑えられないために育児放棄をして、次々と男性を釣り上げて征服してきた「悪い女」だと自己嫌悪に陥るジョーを、セリグマンは慈父のようなまなざしで包む。教養豊かなセリグマンは、登山や釣り、音楽、数学、文学作品、キリスト教の知識を引用して、ジョーのすさんだ心を癒し、「初めての親友」とジョーに言わしめる。しかし、安心して寝ついたジョーのベッドに、初老の童貞セリグマンは男性器を露出して忍び込み、ジョーの陰部をめざしてのしかかる。ジョーは、セリグマンが教えてくれたやり方で拳銃の引き金をひく。「たくさんの男性と寝てきたのになぜ・・・」というセリグマンの声を残して、画面は真っ暗になる。

「ニンフォマニア」とは、「女性の性欲異常亢進で、女性性欲過剰症」であり、「語源はギリシア神話の海神の娘で森や泉の精Nympheに由来している」(『現代性科学教育事典』)。クラフト・エビング(Krafft-Ebing,V.R)はニンフォマニアを精神病質、フリードマン(Friedman,D.)は内心の空虚感が性による満足へと駆り立てる、エリス(Ellis,H.)は、ニンフォマニアは冷感であるためにオーガスムを得られないままに次々と男性を変えて真の人間観駅を結べず、相手の個性を認めず、生きている性器とみなす、と述べる(『現代性科学教育事典』)。

★ブラック・ユーモア: セックスの標本化+デジタル化            
映画では、ジョーの2歳から50歳に至るまでのニンフォマニアの生態を告解形式を用いて、具体的に、リアルに観客に提示する。女性性器も男性性器も映像化されている(日本版はぼかされている)が、ドライで清潔な画面ゆえにグロテスクさもない代わりに、エロチックな感じもしない。観客は、産婦人科あるいは泌尿器科の研修生になった気分にさせられる。昆虫の標本を並べるかのように、次々と画面に現れるヌード場面とラブ・シーンは、感情を排した即物的感性に覆われて、猥褻感のない不思議な透明さを保つ。ニンフォマニアのジョーにとって、男は「生きている性器」でしかないために、ジョーの獲物の男たちの性器が四角い枠内の標本として画面に現れる。15才の初体験の相手であり、後に息子をもうけるジェロームだけが人格を持つ存在である。しかしジェロームとのセックスも3+5=8と数式化されて画面に表される。数式の意味は、ヴァギナを3回突き、アナルを5回突き、計8回の突きによって、ヴァージン喪失と解釈される。おそらく、ジョーに処女喪失を頼まれたジェロームは経験豊かな遊び人であったために、古来から伝わる単純な避妊法を実践したのだろう。さらにジョーのセックス産業の跡継ぎに育てたP(ミア・ゴス)のバージンをジェロームがジョーの前で奪う時も皮肉なことに、同じ3+5=8の公式が適用される。 
セックスのデジタル化は、17才のジョーと親友の女の子Bが、列車での男釣りを表に書き込んで数を競うゲームに見られる。アイザック・ウォルトン(Izaak Walton)の著書『釣魚大全』にちなんで名づけられたこの第一章のエピソードもふざけたブラック・ユーモアに彩られる。一見重々しく、しかつめらしいムードを漂わせるトリアーの映像は、意外なまでに破天荒なユーモア、それもブラック・ユーモアに満ちている。では、トリアーはなぜこのような手の込んだ黒い風刺を行うのだろうか? トリアーの真意はなんなのだろうか?それは、トリアーのモラルと常識への反骨精神の表現だと考えられる。

★モラルへの反発:ジェンダー + キリスト教                 
トリアーは、ニンフォマニアの女性ジョーを媒介にして、抑圧するモラルへの反発を表現しようとした。トリアーは、女性に課されたジェンダーを無効化することによって既成のモラルに反逆する。  

★女性のジェンダーの抑圧                           
トリアーがやり玉に挙げるのは、まず第一に女性にのみ課されたジェンダーの抑圧である。性欲のために子供を捨てた罪の意識を拭い去れないジョーに対して、セリグマンは「もしジョーが男だったらいくらでもある話だが、母性尊重ゆえに女には許されない」とジェンダー・バイアス(性別によって固定された役割の概念)を指摘する。ジョーを責めた父ジェロームも子供を育てられず、孤児院に捨てたのにそのことは問題にされていない。男が新しい女を作って妻子を捨てることはいくらでもあるのに、その逆に対して、世間の批判はより厳しく、女性はより大きなモラル上の過失の非難にさらされる。男性の奔放な女性遍歴はいくらでもあるのに、ニンフォマニアは怪物のように扱われる。女性に課されてきたモラルの重圧から自由であるように見えたジョーは、実は心の底で旧弊なモラルを犯した罪の意識に縛られて苦しんでいたのである。  

★キリスト教の抑圧                                  
ジェンダーをはじめとして西欧社会に課されたモラルの多くは、ユダヤ・キリスト教の教えに根がある。ジョーが性的奔放な性癖に罪の意識を覚えるのもキリスト教が女性に課した純潔の教えが頭を離れないからである。監督のトリアーは、キリスト教への反発を作品で露わにしながら、同時にキリスト教的善悪の二項対立概念-から離れられない。トリアーのもう一人の分身のセリグマンは、ジョーの夢に現れたのは、聖母マリアではなく、歴史上名高いニンフォマニアのメッサリーナとバビロンの大淫婦であると解釈するからである。セリグマンの仮面を被ったトリアーは、1054年に分離した東方教会と西方教会の比較をする――西方教会(カトリック教会)が「苦しみの教会」であるのに対して、東方教会は「幸福の教会」である、なぜならば西方教会にはキリストの十字架受難を描いたものが多く、東方教会には聖母子像が多いからであると見事な分析をする。西方教会の人間であるジョーは、キリスト教の「苦しみ」の側面に毒される。 ジョーは、鞭打ちによって性的冷感症を克服してオルガスムを味わおうとするが、うまくいかず深みにはまる。鞭打ちによる深夜のセックス・セラピーに通いつめるジョーは、家庭と息子を失うはめになる。これももとはといえば、キリスト教的モラルの抑圧がジョーにもたらした結果である。                           
トリアーはジョーの作り主である父と救い主である父の二人の父の喪失によって、ジョーの神なき世界を提示する。キリスト教は家父長的だと言われる。ジョーの医者である父(クリスチャン・スレーター)は、知的でおおらかな好人物である。ジョーは陰気で冷たい母にはなじまず、父になつき、敬愛していた。しかし、ジョーが頼りにして愛していた父も、半狂乱になってわめき、ベッドに拘束されて、汚物を垂れ流し、ジョーの目の前で惨めに死んでいく。理想の生みの父親の像は崩れる。されにジョーの救い主、メンター、よき理解者であり、第二の父というべきセリグマンは、最後に雄の本性を表して無防備なジョーに襲いかかる。バージン老人のセリグマンは、ジョーによって初体験をしようとしてジョーの信頼を裏切る。セリグマンの薄汚い行為に立腹したジョーは、ジェロームを殺せなかった銃でセリグマンを射殺する。セリグマンを殺すことによってジョーはすべての父を失った。創造主と救い主の二人の男性の喪失によってジョーは、父なる神を喪失したのである。

トリアーは、ジョーに最後の父セリグマンを殺させることによって、父性への偶像崇拝禁止令を出して、同時にキリスト教の善であるはずの父なる神への不信感を突きつけたのである。しかし、ジョーは抑圧する父を殺したからといって、抑圧から解放されることはない。殺人者に転落したジョーは、今度こそ抑圧どころではない本物の罰を受けなければならない社会的アウトサイダー、犯罪者に落ちた。ジョーも、セリグマンも鬱状態から回復したトリアーのそれぞれ分裂した自我だとするならば、左右が反転した鏡である分身を殺したジョーに救いはない。死んでいくセリグマンと同様にジョーにも、社会的精神的人格的な崩壊と消滅しか残されていない。『ニンフォマニアック』は、ラース・フォン・トリアーの神なき時代のニヒリズムをブラック・ユーモアによって表明している。

©2015 J. Shimizu. All Rights Reserved.  30 Sept 2015

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参考文献:『現代性科学教育事典』「ニンフォマニア」の項目、小学館 1995年 

 

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