ピアノチューナー・オブ・アースクエイク

 

『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』(原題The Piano Tuner of Earthquakes)
DVD 形式: Color, Dolby, Subtitled, Widescreen 
販売元: 東北新社  発売日 2009/03/27  時間: 99 分  言語:英語
カラー   2005年  イギリス・ドイツ・フランス制作
スタップ: 監督: ブラザーズ・クエイ  制作総指揮:テリー・ギリアム  撮影: ニック・ノウランド
キャスト: アミラ・カサール:マルヴィーナ・ヴァン・スティル、 
ゴットフリード・ジョン:エマニュエル・ドロス博士
アサンプタ・セルナ: アサンプタ
セザール・サラシュ:フェリスベルト/アドルフォ       
公式サイト: http://www.quay-piano.jp/

(C)2005 Koninck Studios PTE Ltd., Lumen Films, Mediopolis Film-
und Fernsehproduktion GmbH Leipzig, UK Film Council, Arte France Cinema

『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』ーークエイ兄弟の幻想怪奇な映像

                            清水 純子

★背景としての画面の重要性

一卵性双生児のクエイ兄弟(1947~) の 『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』(2005) は、アメリカ人らしからぬヨーロッパ的退廃趣味の幻想怪奇な映像を展開する。
『ベンヤメンタ学院』(1995)では、 お伽噺を下敷きにして近親相姦のタブーに挑んだが、モノクロ映像であったため地味な印象を与えた。
それに対して、本作 『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』 は、カラーであり、ブラザーズ・クエイの妖怪性と妖艶性が際立つ。
クエイ兄弟の作品の主役は、俳優ではなく、ストーリーでもなく、セリフの意味でもなく、通常ならば背景画面でしかない映像美術である。
クエイ兄弟の映画においても、背景画面以外の要素は重要だが、お伽噺の絵本の挿絵のような凝りに凝った背景画がきわだった特徴をなしている。
セピア色のくすんだ、あいまいで繊細、事物の輪郭はぼかされ、時として二重写しになり、それゆえに妖艶で、妖怪などの幽鬼が出没しそうなシュールな背景としての美術が成り立ったうえではじめて物語が始まり、進行する。
クエイ兄弟の映像がアメリカ的でないのは、明快な原色を用いることなく、黒、くすんだ白(アイヴォリー)、茶、青、緑などのシックで押さえた暗い色調をベースとして、きめの細かいグラデーションと模様を施している
ためであろう。
映像のような写実性と光と闇の明暗の技法で有名なイタリアの画家、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571~ 1610年)の絵が連続して映し出されたような錯覚を与える。
クエイ兄弟は、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれ、フィラデルフィア芸術大学に学ぶが、その後ロンドンに渡って王立芸術学院で学び、以後ヨーロッパで修行し、活躍してきたために欧州的感性が磨かれたと考えられる。

ブラザーズ・クエイ(スティーブン・クエイ と ティモシー・クエイ)

★あいまいで不条理な人物設定
背景画面の色調がダークでくすんでいるのに合わせて、登場人物の設定もあいまいで不条理、輪郭がぼかされている。

a.歌姫マルヴィ―ナ
狂信的科学者エマニュエル・ドロス博士に誘拐されて、孤島に閉じ込められた美貌の歌姫マルヴィ―ナは、生きているのか死んでいるのか定かでない。
舞台で倒れたマルヴィーナを博士は「私の女ラザルスよ、甦れ」 と呼んでいることから、マルヴィーナはその時、仮死状態だったのかもしれない。
博士は、指揮者アドルフォとの婚礼を翌日に控えたマルヴィ―ナに横恋慕して、白いユリの花束を贈っているので、マルヴィ―ナの突然の死は、博士の仕組んだ罠だった可能性がある。
博士の所有する孤島は、美しく不気味な森をはじめとした豊かな自然に恵まれているが、そこに立つお城のような館は、精神病棟である。
マルヴィ―ナは、婚礼の前日に婚約者にふられてトラウマを抱えたため治療の必要があると説明されるが、つじつまが合わない。
マルヴィーナは、黒いベールをかぶされて人形のように存在して、生気がまったくない。
そのマルヴィーナが、婚約者アドルフォに生き写しのピアノ調律師フェリスベルトだけは、認識できる。

b.アルベルト/ ピアノ調律師フェリスベルト
マルヴィーナに婚約者のアルベルトだと認識された男は、ドロス博士に頼まれてピアノ調律のために孤島にやってきたフェリスベルトである。
ピアノの調律を頼まれたのに、博士の島にはピアノは一台もなく、オートマトン(自動装置)しか存在しない。
彼は、博士の作りだした奇妙な六つの自動機械人形のチューニング(調整)を依頼されたのである。
彼は、マルヴィーナに再会するまでは、自分がアルベルトであることを知らない。
ピアノ調律師は、博士にキスされて彼の血を吸ってから、アルベルトに成り変わり、博士の望みと一体化してマルヴィ―ナを助けようとする。
「誰かの幻想の中で生かされているような」錯覚に陥ったピアノ調律師は、なぜこの島に呼ばれたのか? 
彼は正気なのか? それともキノコの胞子を脳に吸い込んで滅びる蟻のように、マルヴィ―ナの毒に滅ぼされようとしている博士の精神的危機救済のためにやってきたのか? 調律師はピアノの第七番目の白鍵になるべく呼ばれたのか? この男は、博士の理想とするもう一つの自我なのかもしれない。
マルヴィーナの愛と観客からの大喝采を勝ち得ることのできるこの男こそが、博士の理想的自画像を形づくるのであろう。
フェリスベルトは、博士の主催する最後のオペラの舞台に自分がアルベルトとして立っているのを観客席で見た時、フェリスベルトとアルベルトは合体する。その瞬間、地震が起こり、舞台は壊れる。
博士はキノコにむしばまれた蟻のように頭から胞子を出して死に、マルヴイ―ナも舞台装置の下敷きになって息絶える。
結局、調律師は、マルヴィ―ナを助けることができないままに、第6目の装置に心を幽閉されて死者マルヴィ―ナへの愛を紡ぎ続ける。この男の精神が生還したのかは明らかにされない。

c.家政婦アサンプタ
ピアノ調律師の世話をやき、島を案内する、常に黒いドレスをまとう、いかつい美女家政婦アサンプタも妖しい存在である。遠くにいても常にピアノ調律師を観察してスパイしているこの女は、かっては娼婦で、今はドロス博士の愛人である。
アサンプタは、「私は博士の鏡なの」といいながら、胸をはだけて脇の下の匂いをピアノ調律師に嗅がせ、「あなたこそ森の匂いだ」と言われて、いたく満足する。博士の孤島から心身共に抜け出すのは、アサンプタのみである。

d.エマニュエル・ドロス博士
すべての陰謀の黒幕は、エマニュエル・ドロス博士である。
博士は、自分が支配する怪奇な小島に精神病棟を建設し、治療と称して人を誘拐し、患者として軟禁する。
歌姫マルヴィ―ナの他には、6人の庭師たち、家政婦アサンプタ、そしてアルベルトであったかもしれない調律師フェリスベルトなどがその犠牲となった。
博士の目的は、自分の音楽的才能を認めなかった人々に対して、復讐のために最後の音楽会を開くことである。
そのためにマルヴィ―ナやアルベルトが必要だったので、誘拐して精神病者として島に閉じ込めた。しかし、本当に狂っているのは、閉じ込められた人々ではなく、閉じ込めた博士自身である。 博士がどういう経緯でそういう状態になったのかは、詳しく語られず、博士の恐ろしい狂った意図は、映画の最後の方で暗示されるのみである。     
★自然と人工の不気味な融合
ドロス博士の孤島は、恐怖美に満ちた自然でおおわれるが、妙に人工的である。
森の中は昼でも真っ暗で何かが内部でうごめいている。
人間の叫び声や歌声が響いたかと思うと、機械音が聞こえる。
博士が狂気に導き、軟禁した人間の声、そして博士が作り出した人形が動く音、博士が作り出した島を支配する
オートマトン(機械装置)の音のちぐはぐな気味悪さが島中にこだまする。
ちょうどE.T.A.ホフマンの「砂男」の大学生のナタナエルが自動人形クララに魅せられて、徐々に発狂していく過程を反芻させられているかのような不気味さを味わわせるのである。
この島に息づくものはすべて博士が支配し、作り変えた人工的な産物であり、自然に見えて実は作り物である。
この島の神として君臨する博士の天地創造によって生み出された、あるいは改変された人工物なのである。
博士は、6人のオートマトンにマルヴィーナ姫を加えて、大掛かりな音楽会を催そうとたくらんでいる。
博士は、自分の音楽的才能を疑った紳士淑女に究極の復讐を果たすための音楽会を企画していた。
奥深く緑豊かな自然の中できしむ自動人形たち、そして博士によって魂を抜かれモノとして改造された人間のオートマトンたちとの共存が不気味な融合を見せる。
登場人物の話すぎこちない外国人風の英語も島の人口性を強調している。
物語の舞台は、スペイン周辺の海に囲まれた島に設定されているためか、俳優陣に英語のネーティブ・スピーカーは起用されていない。
ゴットフリート・ジョン扮する博士の英語が流暢なのを除いて、他の役者たちの話す英語は、外国人が注意深くていねいに話す人工的な英語である。彼らの話す外国人風英語が、人工的でぎこちなく、作品の趣旨に沿った効果を上げる。

★フロイトの「不気味なもの」の再現
クエイ兄弟の作りだした映像は、幽玄で不条理である。
狂気と正気の世界の境界線上に存在する世界の創造である。
「なぜ? どうして?」という問いかけを許さない、独特の不気味な恐怖美に満ちた悪夢の世界の展開である。
観客は、クエイ兄弟の作りだした悪夢にとらわれるが、その意味は見ている最中には容易にわからない。
映画の中で「夢を見ている者は夢について理解しない、ちょうど郵便を配達する者が手紙の内容を知りえないように」 と語られるように、観客にとってクエイ兄弟の映像は一つの体験である。
観客がクエイ兄弟の映像の悪夢を理解するのは、その記憶が観客の脳裏に深く沈んで、いったん忘れ去られた後、反芻された後なのである。
その意味において、クエイ兄弟の作品は、フロイト的感性の産物だといってよい。
常に家の土を掘り起こしている物言わぬ庭師たち、いったん埋葬されたのち博士によって墓から掘り起こされて命を与えられたディーバのマルヴィ―ナ、娼婦の世界から掘り起こされて家のキーパーとなったアサンプタ、博士の島でアルベルトとしての記憶を掘り起こされたピアノ調律師、そしてなによりも音楽的才能への侮辱という過去の記憶を掘り起こして復讐を図る博士、彼らはすべてフロイトが「不気味なもの」と呼んだ過去の抑圧されたコンプレゥクス、つまり隠しておきたい秘密の記憶を反芻する者たちであり、それゆえに不安を呼ぶ、危険な領域に住む人々である。

★地震を調律する者とは?
地震を調律するピアノ調律師フェリスベルトとはどういう役割を担った人物なのか?
地震とは、大地を揺るがし、大地に亀裂を与える大変動を意味する。
この映画では、地震は、博士の亀裂の入った狂った精神状態を暗示する。
その狂った精神の亀裂をふさぎ、調律する男が博士のオルターエゴであるピアノ調律師なのではないか。
この孤島に招かれたアルベルト/ ピアノ調律師フェリスベルトは、博士の精神状態を診断し、狂気を調律するために博士自身が呼び寄せた応援団だったのではないだろうか。

©2015 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2015. Dec. 20

(C)2005 Koninck Studios PTE Ltd., Lumen Films,Mediopolis Film- und Fernsehproduktion GmbH Leipzig, UK Film Council, Arte France Cinema

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