サイコマジック・ストーリー



ホドロフスキーの『サイコマジック・ストーリー』
(原題Ritual―Una Storia Psicomagica)
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スタッフ:
監督ジュリア・ブラッザーレ /監督ルカ・イメシ /製作 ジュリア・ブラッザーレ /製作 ルカ・イメシ /脚本 ジュリア・ブラッザーレ、ルカ・イメシ
撮影 ルカ・コアッシン/音楽 ミケーレ・メニーニ
監督・製作・脚本:ギウリア・ブラザール、ルカ・イメッシ
原作:アレハンドロ・ホドロフスキー
撮影:ルカ・コアシン音楽:モービー  
キャスト: リア: デジレ・ジョルゲッティ /ヴィクトル:イヴァン・フラネク /アガタ:アンナ・ボナッソ /フェルナンド: アレハンドロ・ホドロフスキー / グエリエッリ医師: コジモ・シニエリ
販売元: アルバトロス、発売日 2014年、時間: 96 分、2013年、イタリア制作
ジャンル : ドラマ/サスペンス/ミステリー/ホラー

『サイコマジック・ストーリー』―血の復讐

                  清水 純子

あのアレハンドロ・ホドロフスキー(『サンタ・サングレ』、『エル・トポ』の監督)の原作をイタリアの女性監督ジュリア・ブラッザーレとルカ・イメシが脚本を書き、監督した。
ホドロフスキー自身が、ヒロインのリア(デジレ・ジョルゲッティ)の叔母アガタ(アンナ・ボナッソ)の亡き夫でチリ人治療師の亡霊役でワン・シーンだけ登場する。
『サイコマジック・ストーリー』は原作者の意図を反映すると考えられる。
ブラッザーレとイメシは日本では有名でないが、『サイコマジック・ストーリー』を見るかぎり、かなりの実力派である。

★色彩が暗示するもの
映像の洗練された美しさ、特に抑えた色調をたくみさに操って物語の進行にさりげなく生かすセンスのよさには驚かされる。
映画の基調となる色は、「白」と「黒」、それに「赤」である。
冒頭のシーンは、黒と白の濃淡によって彩られる――黒い影を従える白い円柱の通りを黒いスパッツとドレスをまとったリアが遠近法でとらえられている。リアが働くモダンなブティックも、白と黒を基調にした濃淡の世界にある。
男性店員の服は黒、ウィンドー越しにリアを覗いて監視する恋人のヴィクトル(イヴァン・フラネク)は白いワイシャツに黒い蝶ネクタイをまとい、その中間色のサスペンダーを着ている。
リアの所有物になる売り物のネックレスは、黒と白の中間色の灰色、その下の白いカードには黒字と真っ赤な文字が交互に書かれる。
わずか1分の間に、白と黒、それに赤がこの映画のメイン・カラーであり、主題にかかわる色であることを告げる。
この計算しつくされたシンプルシティ(簡素化)を洗練と言わずして、他に何と表現しうるのか。
映画では、「白」は昼、理性、無垢を、「黒」は夜、魂の闇、魔術を、「赤」は血、愛、怨念を象徴する。
愛を血に変える「赤」の色はとりわけ重要である。この映画は、男のわがままのためにわが子を水子にさせられた女の血による呪いと復讐のドラマだからである。

★ジェンダー支配のパワー
色彩に加えて、この映画を特徴づけるもう一つの要素は、ジェンダー(社会的・文化的な男女の性役割)が支配するパワー(権力)の存在である。
美男で社会的に成功しているヴィクトルは、実はサディストである。
ヴィクトルは、惚れた女を専制君主のように支配して従わせることによってのみ、自己の存在を確認できる。
ヴィクトルが性欲を満たせるのは、彼の幼児性と横暴を無条件に受け入れてくれるリアのような女である。
ヴィクトルがリアに大きなグレイの首飾りをプレゼントするのは、リアがヴィクトルの所有者であることの確認である。
それだからヴィクトルは、飼い主が飼い犬に首輪をつけるように、リアに首輪をはめてやる。
ヴィクトルは、リアを自宅に招いて料理をふるまい、リアの健康を気遣って口に食べ物を運んでやるが、この親切にみえる行為は、男ヴィクトルの女リアに対する所有権と優位性を確立するための策略であり、儀式でもある。
ヴィクトルのリア支配のための戦略は続く――プレゼントの黒いスカーフでリアに目かくしをして、「僕を信じるんだ」と命令し、雄犬のマーキングのようにリアにキスをしたうえで、リアの体を愛撫する。

★女の血の呪い
ヴィクトルの男の力による行為に服従したリアは、この時点でヴィクトルのサディスティックな支配に屈したことになる。
リアは、受け身のジェンダーを持つ女であるゆえに、男の暴力的パワーにねじ伏せられたことが快感であると同時に、その一方で抵抗できなかった自分に悩む。
リアの心的葛藤は、次の場面がリアの精神分析医との対話であることによって示される。
母親不在で叔母に育てられ、女性としてのアイデンティティーを十分に育むことなく初潮を迎えたリアにとって、女であることは、呪いであった。
どす黒い血がどこからともなく床に滴り落ちるのを見た9歳のリアは、悲鳴を上げて叔母を呼ぶ。
その出来事以来、リアにとって血は呪いであり、毎月血を流す宿命を持つ女の性を肯定できなくなった。
デザイナーとして才能があり、美しい容姿を持つリアが、ヴィクトルの暴力のなすがままにされるのは、女のセクシュアリティへのマイナスの価値観が作用しているのであろう。
リアの女性としてのセクシュアリティを完全に否定して捻じ曲げたのは、ヴィクトルの一方的な胎児中絶命令である。
妊娠を知って喜び、ベビー服を編んでいたリアは、この時も何も抵抗せずにヴィクトルの横暴な言葉に従い、赤ん坊を闇に葬る。
その後も続くヴィクトルの「出て行け、おまえなんかいらない」という暴言に耐えかねたリアは、浴槽で自殺未遂をする。
反省して帰宅したヴィクトルが目にしたものは、浴槽の水を血で真っ赤に染めて、全裸のまま眼を見開いて仰向けに浮くリアであった。
リアは、毎月流す女の血を愛の力で生命に変えた歓びもつかの間、愛の結晶を血のかたまりとして流させられる。
リアの意識下の罪悪感は、自分の血を流すことによって、赤子の血の犠牲を清算させたのであろう。

★無意識にはたらきかけるサイコマジック療法
望んでいた赤子をヴィクトルに逆らえずに堕胎したリアの罪意感は、リアの正気を徐々にむしばむ。
リアにとって最後の頼みの綱は、田舎に住む叔母のアガタである。
アガタは、呪術を行うために魔女だと陰口をたたかれる反面、村人を心の病から救い、聖女として崇められてもいた。
アガタは、人形を自分の赤ん坊だと思い込んであやすリアを見て、呪術的儀式によってリアを堕胎のトラウマから解放しようとする。
リアの人形の目玉が生きているようにくるくると動くところは、映画『チャイルド・プレイ』(人形に悪霊が乗り移って惨事を引き起こす物語)を連想させて、不気味である。
ある意味において映画通の観客のこの連想が正しいことは、後になってわかる仕掛けである。
リアの元にやってきたヴィクトルが、酒場でビリー・ホリディーの歌「奇妙な果実」―「南部には奇妙な木がある、葉にも根にも血をしたたらせている」を聞いている間に、リアは叔母によって赤ん坊の代わりに奇妙な果実を疑似出産する。
その果実を箱に入れて埋葬することがアガタの精神療法、つまり無意識にはたらきかける暗示療法がサイコ・マジックである。
アガタのサイコマジックは、シンボリズム、精神性、シャーマニズム(シャーマンつまり巫女の能力が成立させる宗教や宗教現象)を合体させた、原始的にして合理的療法である。患者のオブセッション(魔物や恐怖観念などに取り憑(つ)かれている状態、妄想、強迫観念)という思いこみを逆手にとって利用した儀式によってトラウマからの治癒をめざす叔母アガタの療法は成功しかけた。
しかし、屋敷に戻ってきたヴィクトルの暴力的行為によって、またもやすべてが水の泡になる。
その結果、再び狂気に陥ったリアは、意識を再び暗い領域に沈ませて、最後に復讐を果たす。女の血が否定された怒りは、血によって贖われることになる。

★色彩によって仕切られる意識と無意識
この映画は、それぞれの場面が色によって有機的につながり、後におこる出来事を暗示していてむだがない。
色が支配する映画の画面は、無意識の恐怖と衝動を間接的に表している。
「白」が象徴する昼の世界は、理性と現代的日常性が支配し、「黒」の占める夜の世界は、悪夢と狂気の非日常が取り仕切る。
「赤」い血を流させる愛の世界は、当初は昼の領域にあったが、物語の進行と共に暗い夜の世界に忍び寄る。
「赤」が「黒」の領域に侵入して色が交じり合った時に、華やかな「赤」はどす黒く陰惨で危険な「赤色」に変質する。
アガタを「年老いた魔女」とののしるヴィクトルも、リア同様、夜になると血まみれになって髭をそり続ける悪夢を見るようになる。
これを予知夢だと解釈することは可能だが、それ以上にヴィクトルの潜在意識に宿る赤い血への恐怖が黒い悪夢の形をとったと考えられる。
リアが赤子の代わりに出産した「奇妙な果実」をヴィクトルが叩き割り、中からどす黒い赤い色が流れ出した時、血による復讐劇ののろしがあがる。赤い血の情熱が、白い昼間の意識を離れて、黒い無意識の夜の領域に入り込んだとき、理性は失われ、悲劇が始まる。
リアを愛するアガタは、暗い心の意識下を整理整頓するために、人間の理性に反する魔術の力をもって勝利しようとするが、ヴィクトルの無理解によって阻止され、リアは再び黒いウロボロスの狂気の世界に落ちていく。

★ドッペルゲンガー
①リアと魔女
リアの見た「赤子を抱いた魔女」は、黒くて暗い夜と洞窟の中に姿を現す。
赤子をあやす、若く美しい魔女は、リアと観客にしか見えない。
魔女は、リアの分裂した自意識であり、ドッペルゲンガー(もう一人の自分、隠された自意識)である。

②リアとヴィクトル
「もつれた髪の中に妖精が住む」と言うリアを「子供っぽい」と笑うヴィクトルは、子供を持つことを拒否する未成熟な男である。
リアの子供っぽさは、ヴィクトルの幼児性と合わせ鏡の状態で存在する。
その意味において、リアとヴィクトルは、同類であり、その意味においてドッペルゲンガーの関係にある。
リアがヴィクトルに虐げられても逃げ出せず、ヴィクトルもリア以外の他の女と関係を持とうとしてもできないのは、お互いが同様の心理状態を共有するドッペルゲンガーの関係にあるからである。

★映画は最高の芸術形式
『サイコマジック・ストーリー』は、高度な洗練、象徴的で緊密に計算された無駄のない映像ゆえに、繰り返し見れば見るほどその完成度の高さを堪能できる。
イタリアのすぐれた芸術的センスが鬼才ホドロフスキーの「映画は最高の芸術形式だ」(ホドロフスキー DVD『サンタ・サングレ』の中の「スペシャル・フィーチャーズ:ホドロフスキー監督インタビュー(2003)」)という信念を立証する作品を生み出した。

Copyright ©J. Shimizu All Rights Reserved.   2015. July 31