プラハのモーツァルト 横田

© TRIO IN PRAGUE 2016.

 

『プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード』――職人肌の監督が編んだ佳作 

                                横田 安正


 これは「恋に落ちたシェイクスピア」ならぬ「恋に落ちたモーツァルト」といった映画である。モーツァルトが「フィガロの結婚」上演のため、妻子をウイーンに残しプラハを訪れたにのは1787年のことであった。滞在中、彼は「ドン・ジョヴァンニ」を完成させる。この映画は「ドン・ジョヴァンニ」のストーリーがそのまま生身のモーツァルトに降りかかるという構成だ。つまり、モーツァルトを慕う清純なソプラノ歌手スザンナを金満家で女たらしのサロカ男爵が謀略の限りを尽くして陵辱するというもの―1人の女性をめぐって繰り広げられるモーツァルトとサロカ男爵の争いを描いている。

監督について
 ジョン・ステイーヴンソン監督はもともと特殊効果マンであったが、1992年に監督業に転身した。作品を見る限り、彼は映像編集に異常なこだわりを持つ“職人肌”の監督と言えよう。日本でいうならば、さしずめ大林宣彦監督だ。彼の映像に対するこだわりは、常に進行しつある事象の“表と裏”を、短いカットを精妙に駆使して立体的に描写することである。例えば、冒頭の「フィガロの結婚」の演奏シーンでは指揮をするモーツァルト、演奏する楽団員、聴き入る聴衆という“表の世界”と、地下で舞台を移動させるため巨大な滑車に巻いたロープを引っ張る筋肉隆々の裏方たち、舞台裏で忙しく駆け回る衣装係りなどの“裏の世界”である。また最終シーンでは、新作「ドン・ジョヴァンニ」をモーツァルトが指揮する“劇場シーン”と同時に進行する“サロカ男爵がスザンナを陵辱するシーン”が絶妙のカットバックで描写される。「ドン・ジョヴァンニ」の最終章の音楽はモーツァルトとは思えないほどの激しい怒りと禍々しさに満ちているが、彼が指揮する舞台上の音楽が実際に起こっている生のドラマに見事にシンクロするという“編集上の高等テクニック”をこの監督は見せるのである。
 この映画は映像処理だけではなく、美術監督ルチャーチ・アリギ担当の18世紀の室内装飾、衣装、さらにプラハの町並みの佇まいが素晴らしい。また音楽の使い方も的確である。イギリス人スタッフの確かな力量が伺える。全体的にストーリーは非常に分かりやすく、セリフも簡潔で中学校の英語の教科書に出てくるような易しい表現が多い。監督の対象はあくまで一般大衆であり、特殊なインテリ層や評論家たちではない。“芸術映画”を作ることなどは夢々考えていない、といった覚悟が見てとれる。こうした態度は映画製作会社やプロデューサーにとっては最も望まれる“模範”となるものである。

万人に愛される映画とは?
 この映画は大多数の観客に支持されることであろう。大方の評論家も目くじらを立てることは無いのではないか。しかし、世の中には映画に“身も心も震えるような感動”、あるいは“深い芸術性”を求める観客がいることも確かである。残念ながら“万人に愛される映画”はそうした人たちを容易に満足させないことも事実である。そういう人たちを無視して良いのか、という疑問が生ずる。“一般大衆をターゲットにするか、それ以上の人たちを対象にするかは監督・製作者の自由であって第三者があれこれ言ってもはじまらない”と言うのも尤もな意見である。ただ評論家には、件(くだん)の作品がどちらに属するのかを明らかにする義務があるように筆者には思われる。

ートとは何か
 日本が開国した時、我らが先輩はART(アート)を芸術と訳した。けだし名訳である。ARTには作者が表現したい“精神的な内実”とそれを表現するための“技術”を内包するからである。「芸術」という言葉はその両者をきちんと包含している。“芸”とは“精神的な内実”であり、“術”とは技術(テクニック)を意味する。(芸と術は本来は混然一体としたもので明確に分離できるものではないが、ここでは話を分かり易くするため便宜2つを分けて表現する)。しかし、我が国で芸術と言えばほぼ100%“芸”を意味し、“術”はないがしろにされて来た。従って“芸術的”とはしばしば“観念的で小難しい”というネガティヴな意味を持つことになったのは残念なことである。
 何はともあれ、「プラハのモーツァルト」の監督の場合、いわば芸が30%、術が70%である。一般大衆を作品のターゲットにした場合、必然的にこういう比率になるのである。こうした監督、映画作家は結構多く、「イミテーション・ゲーム(モルテン・ディルドゥム監督)」、「アバター(ジェームス・キャメロン監督)」などはこのカテゴリーに属する作品である。
 一方、黒澤明、フェデリコ・フェリーニ、イングマール・ベルイマン、ルキノ・ヴィスコンティ、アンジェイ・ワイダなどの巨匠の場合、芸も術も100%を目指すので、併せて200%となる。これが佳作と傑作の分かれ目なのだ。映画作家が“万人に愛される映画”を目指した瞬間、その映画は決して“映画史を飾る傑作”とはならず“佳作止まり”になる宿命を持つのである。そして1番の問題は、こうした映画がしばしば観客にcondescending(優越感を意識しながらわざと下手に出る)、いわば”上から目線”を感じさせてしまう事である。観客が(ごく少数でも)何か馬鹿にされたように感じてしまう事である。

「プラハのモーツァルト」の評価 
 基本的に非常に良く(上手く)出来た映画で、観客、評論家ともに高い評価を下すことは間違いなかろう。しかしながら、映画にあくまでも“芸術”を求める筆者には(特に敬愛してやまないモーツァルトを描く映画であれば)到底満足出来るものではない。またモーツァルトを演ずる俳優(アナイリン・バーナード)が余りにも“つるっと”した美形で天才音楽家の苦悩を描くには物足りないという不満もある。結論として、冒頭に記したように、「職人肌の監督が編んだ佳作」と言える。

©2017 A. Yokota. All Rights Reserved. 13 Sept 2017.

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