ライ麦畑で出会ったら(清水)

©2015 COMING THROUGH THE RYE, LLC ALL RIGHTS RESERVED

『ライ麦畑で出会ったら』原題:Coming Through The Rye
監督:ジェームズ・サドウィズ
出演:アレックス・ウルフ、ステファニア・オーウェン、クリス・クーパー/
アメリカ/英語/2015年/97分/シネマスコープ/5.1カラー/PG12/公式HP/
配給:東北新社 STAR CHANNEL MOVIES/ 10月27日(土)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

            
STORY> 1969年、アメリカ・ペンシルベニア州。学校一冴えない高校生のジェイミーは、周囲ともなじめない孤独な生活を送っていた。そんなある日、若者のバイブル「ライ麦畑でつかまえて」に感銘を受け、演劇として脚色することを思いつく。しかし、舞台化には作者であるJ.D.サリンジャーの許可が必要だと知る。そこで、連絡を取ろうと試みるものの、隠遁生活をする作家の居所はつかめないまま。その最中、学校である事件が発生し、ジェイミーは寮を飛び出してしまう。そして、演劇サークルで出会った少女のディーディーとともに、サリンジャー探しの旅に出ることを決意するのだった。新たな一歩を踏み出したジェイミーが見つけた“人生のヒント”とは……?


ライ麦畑で出会ったら』――憧れのサリンジャーを乗り越えて

                                                                              清水 純子

★ジェイミー少年のイニシエーション・ストーリ
 『ライ麦畑で出会ったら』は、青春小説の名作『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye, 1951)の主人公ホールデン・コールフィールドに自分を重ねる17歳のジェイミーが、作者ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー探しの旅に出ることによって、自分自身を発見するイニシエーション・ストーリーである。サリンジャーを崇拝するジェイミーは、現実のサリンジャーに会うが、偶像崇拝から覚めて自分を知り、自分の将来の方向性を見定める。憧れのサリンジャーは、少年時代の思い出を小説に封じ込め、過去のロマンに生きる化石なっていた。若いジェイミーは、サリンジャーの世界を追うことはやめて、自分の世界を自分で構築する決心をする。

『ライ麦畑でつかまえて』の上演権を求めて
 舞台は1969年のアメリカ。ペンシルヴァニアの17歳の演劇少年ジェイミーは、 『ライ麦畑でつかまえて』を高校で上演しようとする。 ジェイミーは、舞台化には原作者・サリンジャーの許可が必要だと聞いて、どんなことをしてもサリンジャーに会おうと思う。変人として名高く、秘密の隠遁生活を送るサリンジャーを探すむちゃな旅に出る。恋人のディーディーは、自分の車にジェイミーを乗せて同行する。ジェイミーの熱意は不可能を可能にする。ジェイミーは、サリンジャーの家を探し出すが、サリンジャーの答えはノーだった。サリンジャーは、自分の小説の登場人物は自分の小説の中だけで生きるのであり、他の媒体に移し替えれば自分の子供たちでなくなってしまうとかたくなに要求を拒否した。ジェイミーのような申し出は今まで山ほどあったが、一度もOKしたことはないし、戯曲にしたってうまくいくはずがないと頑固に言い張る。無理に劇にすれば盗みになるからやめておけ!とまで言う。失望して帰宅するジェイミーに、高校の教師たちは、サリンジャーに会えただけでもすばらしい、その経験を皆の前で披露しなさい、劇にして上演しても研究目的で利益を上げないならば問題ないと励ます。劇は大成功をおさめ、ジェイミーは勇気を出してサリンジャーに報告に行く。サリンジャーは暖かく迎えてくれたが、その戯曲はいらない、実は今まで幾度も舞台化されて、すべて成功を収めている、君は人の作品ではなく、今度は自分の作品を発表すべきだと励ます。ジェイミーは、車で送るというサリンジャーの申し出を辞退して、台本を捨てていく。そして「サリンジャーの小説の子供たちは、今でもあの家のガラスの中に閉じ込められて、ずっと少年のままなんだ」 とつぶやく。

★『ライ麦畑でつかまえて』と『ライ麦畑で出会ったら』のメンタリティーの大きな違い
 映画『ライ麦畑で出会ったら と小説『ライ麦畑でつかまえて』は表現媒体が違うだけではなく、作品の作り手のメンタリティーが180度異なる。原作の小説家サリンジャーは、自分の少年時代の思い出、あるいはトラウマを『ライ麦畑でつかまえて』の中で表現して大成功を収めたが、自分自身を解放することはできなかった。サリンジャーは小説家として有名になることによって、自分の心の傷を癒すことはなく、自分自身の過
去ばかりか、現在もそして未来までも小説の中に閉じ込めてしまった。サリンジャーは、主人公ホールデン・コールフィールドを成長させることなく、外の世界に出ることも許さず、活字の中に閉じ込めて、自分の手元に置いて離さなかった。作家という人種は、心に傷をもっていたり、悩みを抱えていることが多く、書くという行為が癒しになって、病になることから救われる場合もあると聞く。そして作家が描いた世界に共通の思いを見て、読者も癒され、励まされるというのが優れた小説の効用である。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、世界中に多くの愛読者を持つのだから、その意味で偉大な小説の効用を果たしたのである。しかし、作者自身は、小説の成功によって、悩みから自由になるどころか、ますます追いつめられ、偏屈になっていったようである。

★マスメディアの痛手による隠遁
 映画化によって自作が似ても似つかない怪物に変形された苦い思い出がサリンジャーにあるのだろうが、映像の時代と呼ばれる20世紀の中庸から21世紀にあって、活字一辺倒で行くとは時代錯誤である。戯曲化、映画化を許可するかどうかは原作者の小説家の自由だが、一切許可しないのは偏屈である。それに比べてスティーヴン・キングの小説は、映画化されていないものを探すのがむずかしい。S・キングにしたって、すべての映画化が成功したわけではなく、中には憤りを覚えたものもあったであろう。それでも自分の作品を多くの人々に知ってもらいたいという思いがあればこそ許容度が増すのである。お金だけの問題ではないだろう。自分の殻に閉じこもりすぎないということも、現代における優れた作家に求められる資質ではないだろうか? しかしマスメディアの執拗な取材体制、パパラッチによる被害、お金になると思えば情報を売る人々、これら有名人にとっての害虫の存在が、サリンジャーのような隠遁生活を余儀なくさせていることも事実であろう。

ジェームズ・サドウィズ監督 ©2015 COMING THROUGH THE RYE, LLC ALL RIGHTS RESERVED

★藍は藍より出でて藍より青し
 この映画の少年ジェイミーは、サリンジャーの閉鎖性と引きこもり体質に批判の目を向けたのではないだろうか? 若いジェイミーは思った――僕は有名になっても、ああはならないぞ!求められれば、必要であれば、自分の作品を解放する、ファンは大切にしたい!ジェイミー少年は、サリンジャーの小説の翻案劇の成功によって、自分の心の問題、兄の戦死のトラウマを見据えて吹っ切ることができた。ジェイミーは、書くことによって自分の心を分析し、悩みから解放されて成長することができた。ジェイミーにとって書くことは、成功を鍵のかかった自分のガラスの城に閉じ込めることではなく、皆と分かち合うことである。ジェイミーの将来は、「藍は藍より出でて藍より青し」(弟子が師匠の学識や技量を越えること)になるかもしれない。ユダヤ系少年ジェイミーはジェームズ・サドウィズ監督の自画像であるから、映画製作によってサリンジャー未踏の領域に乗り出し、憧れの人を乗り越えたとも言える。

©2018 J. Shimizu. All Rights Reserved. 29 Aug 2018

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