リグレッション(清水)


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リグレッション 原題Regression
出演::イーサン・ホーク、エマ・ワトソン、デヴィッド・シューリス 監督・脚本:アレハンドロ・アメナーバル 音楽:ロケ・バニョス 原題:Regression 2015 年|スペイン、カナダ|106 分|スコープ|5.1ch
配給:ポニーキャニオン/ 製作年 2015年/ 製作国 スペイン・カナダ合作/ 上映時間 106分/ 映倫区分R15+/
オフィシャルサイト 
9月15日(土)新宿武蔵野館ほか全国順次公開


リグレッション』――必見の実話サイコホラー

                        清水 純子

☆実話サイコホラー『リグレッション』

 アレハンドロ・アメナーバル監督は、『リグレッション』について「この映画は真剣な気持ちでつくられたサスペンスだ。(中略)この映画はホラー映画ではない。恐怖について、人間の心のもろさについての映画であり、恐怖というものはどれほどのものなのか、そしてそういった恐怖がどう思考回路や物事を見る目を狂わせるのかを示しているんだ」(プレスシート)と語る。
 監督のこの言葉は、映画『リグレッション』の主題と主張を的確に十二分に伝える。しかし監督がサスペンスとホラーの境界線をどのような基準で引いたのかという疑問はある。一般的にサスペンスとホラーのジャンルの間の明確な線引きは、現時点ではないに等しい。この映画が、人間の心の闇を恐怖を呼ぶ怖ろしげな形で真剣に表現しているのであれば「サイコホラー」と呼んでいい。「サイコホラー」(サイコロジカル・ホラーpsychological Horror)は、精神病質者(サイコパス)あるいは精神異常者とされる危ない人物サイコ(psycho)の心の闇がもたらす恐怖を描くアートである。タイトルの「リグレッション」は、心理学ではトラウマや過去の強いフラストレーションから自己を守る防衛機制の1つであり、衝動や葛藤などの不安から守るために退行現象に陥り、以前のより未発達な段階へと逆戻りする様式をさす。映画では、回復記憶療法によって、この自我防衛機能を取り去り、過去の記憶を回復させる催眠療法を「リグレッション」と呼ぶと解釈できる。『リグレッション』が究極のホラーである理由は、この映画のもとになった話が作りものではなく、実話に根ざすことである。


☆いたいけな少女を演じるアグネス
 1990年ミネソタ州で、17歳の少女アンジェラ・グレイは実父による性的虐待を告発した。加害者の父ジョン・グレイは容疑を認めたが、その記憶がなかった。捜査担当のブルース・ケナー刑事は、著名な心理学者ケネス・レインズ教授に回復記憶療法(recovered-memory therapy、または退行催眠療法))をジョン・グレイに試みさせて、その記憶を呼び戻そうとするが失敗する。この実験から同僚のネスビット捜査官の関与を疑い出したケナー刑事は、さらに被害者アグネスの証言によって、町全体が悪魔的カルト(satanic cult)に汚染されていることを知る。家から追放されたアグネスの弟ロイ・グレイに「退行療法」(リグレッション、regression technique)を施したところ、ロイはフードを被ったおぞましい人々を目撃した幼児期の記憶を回復した。ケナー刑事は、魔女と噂されるロイの祖母ローズのロイ虐待を疑ったが、証拠はみつからなかった。逆に夜中に怪猫の姿を見たローズは、恐怖のあまり2階から飛び降りて瀕死の重傷を負う。父の虐待の証拠である下腹部の逆十字架の傷をアグネスから見せられたケナー刑事は、同情からアグネスに肩入れする。その頃からケナー刑事は、執拗な無言電話、不気味な黒ミサや夢魔インキュバスに犯される悪夢に悩まされる。現実と夢の境界線が危うくなり出したケナー刑事は、現場では被害妄想ゆえの過激な行動に出て、同僚の注視を浴びる。休息を強制されたケナーは、恐怖心を克服して事件の核心に迫る捜査を秘密裡に単独で強行する。
 アル中で家庭を顧みない父ジョンのせいで、母は自殺、ゲイの弟はソドミー人として家から追放され、母のネグレクトによって心を病んだアグネスは、不幸をすべて父のせいにして復讐を試みた。悪魔の儀式を生き延びた証人としてTVに登場し、新聞のトップを飾るアグネスを見たケナー刑事は、現代に悪魔は存在するとつぶやく。ケナー刑事の悪夢もロイの記憶も現実にあったことではなく、催眠術によって植え付けられた「虚偽記憶」であったことをケナー刑事は見抜いた。悪魔祓いによる惨劇は、一人の少女の心の闇が産んだ茶番劇だったと言える。しかし、サタニック‣アビュース・ヒステリアは、すでに1980年代以降アメリカ各地で報告されていたのである。
 『リグレッション』は、悪魔崇拝にまつわる心の闇を描くことによって、集団ヒステリー、催眠による虚偽記憶、チャイルド・アビュース、自己欺瞞などの人間の心に巣くう悪の本性を明らかにする。

集団ヒステリーCollective Hysteria
 神と敵対する悪魔を崇拝する儀式である黒ミサのおぞましさは、映画の随所に登場する。教会に集まった信者は、黒い服をまとい、顔
には骸骨を連想させる覆面をして、道徳と理性を否定する行為――生き血を飲むこと、人肉食、幼児の生贄、売春、乱交―にふける。最も恐ろしいのは、生まれたての赤子を豚を解体するようにナイフで切り裂き、その肉を皆でむさぼり、血をすする場面である。乱交については、就寝中のケナー刑事は動けないように縛りつけられて衆人監視の中でレイプされる。女夢魔であるインキュバスは、若く美しい女に見えたが次の瞬間、怖ろしい老婆の顔に変わって刑事の上に馬乗りになる。
 黒ミサもレイプも、集団の中で行われることに特徴がある。古来より行われてきた魔女狩りやリンチは、個人の感情や思考が他人に伝染して、集団で幻覚状態による精神的恍惚に導かれた末に、一団となって陶酔のうちに悪魔的行犯罪行為に手を染める冒涜的状態である。中世の集団ヒステリーである魔女裁判、悪魔憑き等の迷信的行為は、伝染病や天災、政治や経済の混乱による社会不安や恐怖によって起こったとされる。『リグレッション』の悪魔崇拝による被害も、精神を病んだサイコパスの少女アグネスが火付け役となって集団へと広げられた。その伝播力はすさまじく、ケナー刑事も悪魔的カルトの暗示の犠牲になる寸前まで追い詰められる。
 集団ヒステリーは他者に同調することで起こるが、人間の脳には他人の行動をまねて同調する神経細胞ミラーニューロンが存在する。ミラーニューロンは、他人の行動、思考、発言、体験、感情などを自分の身に起こったこととして吸収する鏡のような作用をもつ細胞である。人間はミラーニューロンの働きによって人の気持ちや感情に同調するが、特に負の感情の感染に対してこの細胞は敏感であり、集団になればなるほど感染力は威力を増す。ケナー刑事が情緒的にアンジェラと関わり出した途端に彼女の罠にはまって黒ミサの悪夢に悩まされ、精神の平安をかき乱されるようになったのもミラーニューロンの働きだと考えられる。いたいけな少女アンジェラの負の感情の伝染力はすさまじく、町全体に広がり、マスメディアによってアメリカ全土に飛び火したのである。

退行催眠による虚偽記憶
 虚偽記憶(false memory)とは、実際には起こらなかったことに関する偽りの記憶を指す。人間の記憶は信頼できないばかりか、内からも外からも容易に作り変えたり、操作したりできる。催眠術師や心理治療師が、実際には起こってもいない、体験したこともない虚偽の記憶を植え付けることもできる。特に「退行催眠」においてその可能性は増す。退行催眠療法は、記憶が過去の時間枠に存在するという
特質に着目して、催眠によって意識を過去の時間に退行させて記憶を遡らせ、過去のできごとやそれに伴う心の傷を鮮明に知ろうとする療法である。催眠状態にある被験者は、催眠術師や心理療法士の影響を受けやすく、マインドコントロールあるいは洗脳される恐れも多々ある。そうでなくても被験者自身が無意識に自分に都合のよい記憶を作り出して、記憶を改ざんしてしまうこともある。退行催眠による治療法は、1980年代にアメリカで一時的にはやったが、この治療を受けた患者は虐待の記憶を基にこぞって親を訴えたという。調査の結果、その多くは事実無根の過去の記憶を思い出していたことが判明した。現在の心理学は、催眠によって思い出した記憶を事実であるとはみなさないという方向に向かっている。
 『リグレッション』の中で、ソドミーの弟ロイ・グレイは、レインズ教授の催眠療法によって、幼児期のトラウマであるサタニストの寝室侵入の記憶を呼び戻すが、これは典型的な虚偽記憶の例であり、実際には起こらなかったことである。またケナー刑事は、実在の女性と思い込んでいたのと同じ顔を町の看板に見て、自分の記憶が虚偽記憶であったことを認識する。『リグレッション』は、科学と称する心理療法の信憑性と危険について警告している。

アグネスの負の本能が呼ぶ悪魔崇拝儀
 アグネスは、悪い父にいたぶられながらも家族を愛するけなげな少女の仮面を被っていたが、本物の悪魔は実はアグネスだった。アグネスは、本当は家族を心底憎んでいた。特にアル中で家庭を顧みず、母を自殺に追いやった父を憎み、父への復讐心から、悪魔憑きの茶番劇を仕組んだのである。アグネスのたくらみの元になったのは、FBIが捜査に乗り出したことでTVに取り上げられ、本になった安っぽい悪魔的儀式虐待だった。
 アグネスのひねくれた根性は、両親の不和による家庭崩壊、母のネグレクト(育児放棄)のために健全な自我を発達させられなかったことによる。いびつに成長したアグネスは、被害者を演じることによって他人の目をかわしながら、悪魔的悪事に手を染めていた。歪んだアグネスの自我は、ストレスを犯罪行為によって発散させ、かまってもらえなかったトラウマの埋め合わせにしていた。愛されることなく育った娘は、人を愛することを知らない。虚栄心と加虐性(サディズム)を満足させる悪徳がアグネスの自己主張であり、自己の存在を確認できる悦楽を得る手段である。アグネスの負の方向に動いた自己保存の本能は、いたいけな少女の仮面を必要としたが、その素顔は悪魔顔負けの凶悪なサイコパスであった。

☆カルト宗教への警
 日本でもカルト教団オウム真理教による不可解な大量殺戮事件以来、将来あるエリートの青年たちがなぜ凶悪な事件に関わってしまったのかについて、様々な心理学者や社会学者の分析がされてきた。犯罪者になった彼らの心の闇、集団ヒステリーと言ってよい悪事への共感性、疑似科学の手法、誤ったテクノロジーの応用について、『リグレッション』はヒントと忠告を与えてくれる。『リグレッション』は、内容も構成も堅固に作られているうえに、人間の暗黒面、集団的精神の病について時と場所を選ばない示唆と警告を与える。これは見逃がすことのできない最新のサイコホラーの傑作である。


©2018 J. Shimizu. All Rights Reserved. July 28 2018



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