スタン・ザ・フラッシャー


スタン・ザ・フラッシャー(1990) STAN THE FLASHERスタン・ザ・フラッシャー/露出狂とロリータ(ビデオ)上映時間 70分  製作国 フランス 公開情報 劇場公開(日本スカイウェイ)  初公開年月 1995/10/21 監督: セルジュ・ゲンズブール  製作: フランソワ・ラヴァール 脚本: セルジュ・ゲンズブール  撮影: オリヴィエ・ゲノー 音楽: セルジュ・ゲンズブール 出演: クロード・ベリ   エロディ・ブシェーズ   オーロール・クレマン リシャール・ボーランジェ

 

『スタン・ザ・フラッシャー』-エロスとタナトスの交わるところ
                               清水 純子

『スタン・ザ゙・フラッシャー』(Stan the Flasher, 1989年)をあるオークションにて500円で落札した。
人気のない、埋もれた商品にありがちな競争なしの楽勝である。
サブ・タイトルは「露出狂とロリータ」、しかし「セルジュ・ゲンスブールの遺作」という説明書きから、単なるポルノ映画でないことを見破っての購入であった。

「フラッシャー」は「露出狂」を意味する英語の俗語である。
フランス映画なのにタイトルが英語になっているのは、主人公の中年男のスタン(クロード・ベリ)が英語関係者だからかもしれない。
売れない映画シナリオ・ライターのスタンは、英語の家庭教師をして生計を立てている。監督、脚本、台詞、音楽を担当したゲンスブールは、自画像と見えるスタンの英語教師のシチュエーションを、相反する二種類の欲望、タナトス(死の欲望)とエロス、の交差地点として巧みに利用する。

スタンに潜在するタナトスは、英語テキストの選択に表われている。スタンの教材は、
いつも決まって『ハムレット』であり、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」(“ To be or not to be. That is the question.”) とスタンも教え子も決まり文句のように繰り返す。

それに対して、スタンのエロス、つまり生に向かう欲望は、第2学級(15,6歳)のリセエンヌのナターシャ (エロディ・ブシェーズ) に向けて発散される。
オープニング・タイトルの、白いブラウスに白いソックスをはいた、無垢で可憐なリセエンヌたちがかたまって座る姿は、露出狂である狼スタンに狙われていることを知らない無防備な羊の群れ、を思わせる。
この子羊の群れの最前列に陣取る、黒髪の際立って可憐な美少女がナターシャである。

だがスタンは中古の狼であり、「露出狂」は子羊に対して威嚇し、威厳を示すための遠吠えの作用でしかない。
しかも「露出狂スタン」――女子学生の群れの前でトレンチ・コートの前をはだけ、裸の下半身を露出する――は、スタンの妄想の産物でしかなく、実行にうつすことはない。
スタンは、教えを受けにやってきたナターシャの髪の毛を人形のそれのようにかきあげてやり、ついでにふくらみ出した胸にも触り、「エロじじい」とナターシャに拒絶される。

かっての美少女であり、スタンの「さおに釣られて」家に取り込まれた妻オーロール(オーロール・クレマン)にスタンはもはや欲情しない。
「やりすぎてうんざりしてしまったため?」妻の中で萎えてしまった失態以来、妻と関わることを避けているのだ。
「吠えても咬みつかない」狼であり、男性機能を失いかけているスタンにとって、ナターシャを筆頭とする女子学生の前での露出という夢想は、永遠に青年でありたいという男のロマンであり、老いへの反逆を象徴するのみだ。

禿げあがった頭、せり出した腹、たるんだ肉に黒いたわしのような体毛を密生させたスタンは、古い薄汚い毛布のようである。
女は誰もスタンにくるまれて寝たくはないはずである。
廃棄処分されるべき物体であり、老いた腐臭を発するけだもののスタンだが、ナターシャはスタンを嫌っているのかと言うとそうでもない。
ナターシャはスタンの写真を盗んで隠し持っている――妹に「好きなの? 見れば見るほど不細工ね。あたしはジェームズ・ディーンの方がいいわ」と言われ、「ディーンは死んだ人よ」と言い返すと、「スタンだって同じよ、幽霊みたいだもの」と言われ、黙ってしまうナターシャである。

スタンのエロスであり生の欲望の根源であるナターシャへの執着を断ち切らせたのは、
ナターシャの父親 (ダニエル・デュヴァル) である。
スタンの行為に激怒した父親は、内診によってナターシャが生娘であることを確認したうえでスタンを刑務所に放りこむ。
ナターシャの父親は、がっちり型の毛深い無骨な下層労働者タイプで、どことなくスタンに似ている。
こんな醜い男からよくもナターシャのようなかわいい娘が生まれたものだ、ととまどうが、よく見ると濃い眉毛やこわい黒髪がナターシャに引き継がれていることがわかり、奇妙に納得せざるをえない。
ナターシャも年をとると、父親のように、つまりスタンのようになるのか、と若さと美のはかなさを連想させるところもなかなかにくい。

スタンは孤独に悩む男である。彼は苦悩を打ち明ける相手も理解してくれる同胞も持たない。
スタンの気持ちを受けとめてくれるのは犬である。
スタンは自分の顔にどことなく似ている一匹の犬に向かって、「ロリータたちは遅いな。ナターシャが来たらじゃれついてやろうぜ。俺たちは同類だからな」と親しげに話しかける。
犬はわかったのか、わからないのか、「クーン」と泣いて小首をかしげる。
一方、スタンを告白相手に選んだのは、監獄の同室のゲイの年寄りの剃刀魔である。
自分の情夫を剃刀で切り裂いた罪で終身刑になった老齢のおかまは、若い頃の艶っぽい情事をスタンに向かって延々と独白する。

スタンは留置所に面会にやってきた妻に、シナリオ・ライターとしての才能の欠如を指摘され、檻の鉄格子につかまって「俺はMGMのライオンだ」と、破れかぶれの遠吠えをする。

愛想をつかした妻は、スタンの出所を待たずに別離を宣言する。帰宅したスタンは一人バス・ルームで全裸で便器に腰かけ、野生を呼び戻す呪文のようにナターシャの名を唱えながら、自慰にふける。
女子学生の前でトレンチ・コートを鳥の翼のようにパタパタと音を立てて前をはだけ、一糸まとわぬ体を露出するスタンの姿が、現実とも夢想ともつかないまま映し出される。
スタンの姿を顔色一つ変えず、見たとも見ていないともとれるナターシャの顔の大写し。
幼いナターシャの顔は、スタンの居間の若い日の妻オーロールの美しい写真の顔と重なる。
この時、ナターシャは若い日のオーロールの幻影だったのか、という疑いが観客の脳裏を一瞬横切る。

エロスの欲望を屈折した形で遂げた後のスタンは、死の欲望タナトスの誘惑にかられ、ピストルの引き金を引き、「スタン・ザ・フラッシャー」の名にふさわしく、露出狂の衣装、つまり靴とコート以外は全裸、で居間に横たわる。
映画全体の照明が暗く、巧みなカメラ・ワークのために、スタンの肉体の細部ははっきり見えないので、観客も助かっている。
猥褻で不快な表現はゲンスブールの目指すところではないからだ。

どこからともなく、ブレスレットをはめた美しい女の手が現われる。
女は銃を握りしめたまま硬直しているスタンの手から銃をはずして、スタンの指に自分の指をからませ、しっかりとやさしくスタンの手を握る。
手の持ち主の女の顔は最後まで画面に現れないが、観客にはスタンの妻であることが推察できる。
ゲンスブールの作曲による、ひたむきな情熱をこめた、やさしい美しい音楽が、この中年男のみじめな死のショックを和らげ、温かく見守る雰囲気を盛り上げる。
スタンの手としっかり重ね合わされた手の持ち主であるところの女の顔を露わにしない演出が、女という生き物の異性である男への慈しみを象徴的に表現しているようにも解釈できる。

『スタン・ザ・フラッシャー』は天才アーティスト、ゲンスブールが監督をつとめた最後の作品である。
映画の完成後ほどなくして、ゲンスブール自身が原因不明の死を遂げたことを知る観客は、顔の見えない女にしっかりと受け止めてもらえたスタンの最後の姿に感慨を新たにすることだろう。
この手の持ち主の女は妻であろう、しかし母であるかもしれないし、一人前の女性に成長した後のナターシャの手かもしれない。
夢想家であったゆえに現実の世界では浮かばれない男、負け犬、にならざるをえなかったスタンの生きざまを支え、意味を見出し、肯定してくれる、最強の味方としての理解ある女の手、芸術の女神の手だったかもしれない。

創作する者にとって、タナトスとエロスの交わるところは、創作活動の結実した芸術作品そのものにある。
アートはタナトスとエロスの交差するところで、両者の危うい関係がうまくバランスをとれた時に誕生する。
妻にエロスを見いだせなくなったスタンにとって、ナターシャは必要不可欠なミューズだった。
モラルに背いていようと、常識的に見て不釣り合いな恋愛であろうと、芸術家スタンはエロスの女神の化身であるナターシャを必要とした。
スタンはナターシャの若さと美しさを燃料にして、死の影を振り払って、高揚した生のうちに創作活動を続けたかったのだ。

スタンが露出狂であるのは、芸術家としての性である。創作を生業にするものは、自分を偽らず、人に見せたくない、自分も見たくない暗部、恥部を凝視し、受けとめ、それを凝視し、自分なりに変形して、その成果としての作品を他人に向かって露出する作業を避けては通れない。
ゲンスブールはエロスとタナトスの危ういバランスの上に成り立つ芸術家としての宿命、芸術家がたどる末期の姿を『スタン・ザ・フラッシャー』に表現したのであろう。

自嘲するかのように「ユダ公、ろくでなし」の分身スタンを描いたゲンスブール!反モラル、反公序良俗的主題――「露出狂」と「ロリータ」――を扱っているにもかかわらず、見終わった後の観客の胸には、不思議な爽やかさと温かさが訪れる。
惨めでおぞましいスタンの死にざまにもかかわらず、このカタルシスは何によってもたらされるのか。

猥雑な現実にもまれて苦しみながらも、ダイアモンドのように硬質、透明、純粋無垢な輝きを失うことのなかったゲンスブールの芸術家的感性が、濁っているのに透明、猥雑なのに美しい、不思議な映画『スタン・ザ・フラッシャー』を生み出したのではないだろうか。

『スタン・ザ・フラッシャー』は、古い、変な映画だけれど、気になってしかたがない。
それはこの映画にこめられたゲンスブールの輝きを失うことのない魔法の魂ゆえである。

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