ザ・シークレットマン(清水)


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『ザ・シークレットマン』
原題 Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House/製作年 2017年/ 製作国 アメリカ/ 配給 クロックワークス/ 上映時間 103分 /映倫区分G /オフィシャルサイト/2018年2月24日(土)新宿バルト9ほか全国ロードショー
スタッフ:監督 ピーター・ランデズマン/ 製作 リドリー・スコット、ジャンニーナ・スコット、マーク・バタン、アンソニー・カタガス/キャスト: リーアム・ニーソン: マーク・フェルト/ ダイアン・レイン: オードリー・フェルト/マートン・ソーカス: L・パトリック・グレイ/ アイク・バリン・ホルツ:アンジェロ・ラノ  /トニー・ゴールドウィン: エド・ミラー/



『ザ・シークレットマン』――ウォーターゲート事件告発者ディープ・スロート氏の素顔

                                    清水 純子    

 映画『ザ・シークレットマン』を語る前に、シークレットマンであるディープ・スロート氏と当時の米大統領リチャード・ニクソンを辞任に追い込んだウォーターゲート事件についての概略をまず知る必要がある。

★ウォーターゲート事件とは?
 ウオーターゲート事件とは、1972年、ワシントンのウォーターゲートビルにある民主党全国委員会本部に共和党の人物数名が侵入して盗聴装置を仕掛けようとしたところを逮捕されたことに始まり、在任中の米大統領リチャード・ニクソンを辞任に追い込んだ米国史上最大の政治スキャンダルである。ニクソン大統領再選委員会と大統領側近がこの犯行に関与していたうえに、ニクソン大統領自身が事件のもみ消し工作を行った疑惑が浮上した。CIAを通じてホワイトハウスは捜査妨害工作を行った。事件はそもそもホワイトハウスによる陰謀だったが、この事実がマスコミにリークされてしまった。ディープ・スロートというあだ名の謎の人物から機密情報の提供を受けたワシントン・ポスト紙は、事件そのものがホワイトハウスの陰謀であったことを紙面で暴いたため、アメリカ中が騒然となる。世論の動きを察知した議会は、大統領に対して証拠提出を要求し、大統領と対立することになったが、最高裁判所が議会の要求を支持する判決を下し、下院司法委員会が大統領の弾劾を可決した。ニクソン大統領は潔白の証拠として執務室の会話と電話のやり取りを記録したテープを提出したが、逆に疑惑を深める結果になり、追いつめられて逃げ場を失い、1974年8月9日ついに大統領を辞任した。この事件はアメリカの政治制度に対する不信感を煽り、大統領の権威とイメージは失墜した。しかし、権力に屈しない捨て身の作戦で、大統領を辞任に追い込む情報を提供したディープ・スロートとワシントン・ポストの記者の勇気によって、アメリカの民主主義と正義はかろうじて守られ、面目を保ったことは事実である。

★ディープ・スロートはなにものか?
 「ディープ・スロート」と聞けば、映画通は大ヒットしたポルノ映画『ディープ・スロート』(Deep Throat, 1972)を思い浮かべる。不感症のポルノ女優が実は喉の奥にクリトリスがあることを知り、様々な男性器を喉の奥深くまで呑み込み、快楽を得る冒険談である。「ディープ・スロート」は、「喉の奥」あるいは、男性器を喉の奥深くまで含むオーラル・セックスを表すが、俗語で「内部告発者」の意味を合わせ持つ。ウォーターゲート事件が勃発した1972年は、映画『ディープ・スロート』が話題になっていたので、ワシントン・ポスト紙の記者たちが「内部告発者」の隠語をからめて、謎の情報提供者につけたあだ名だった。
 ウォーターゲート事件における「ディープ・スロート」の名はあまりにも有名である。ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマン主演の『大統領の陰謀』(All the President's Men、1976年)でも、「ディープ・スロート」氏は登場する。『ザ・シークレットマン』の中で、フェルト氏がワシントン・ポストの記者と駐車場で密会するシーンを見た瞬間、『大統領の陰謀』のワン・シーンをオーバーラップさせて思い出した人も多いことだろう。それほど有名な「ディープ・スロート」氏だが、『大統領の陰謀』では彼が誰なのかその正体は明かされてはいなかった。ニクソン大統領の辞任後、大陪審室でFBIの部下たちが苦しめられるのを見かねたフェルトが、「自分はディープ・スロートではないかと噂されていた」と証言したのは、『大統領の陰謀』が作られた後のことだったからである。『ザ・シークレットマン』では、「あなたがそのディープ・スロートだったのか?」という裁判官の問いかけに対してフェルトは沈黙を守る。有罪になったフェルトがレーガン大統領の特赦で赦免されたのが1981年、フェルトが『ヴァニティ・フェア詩』で、「自分がディープ・スロートであった」ことを認めたのが2005年である。アメリカ史に大きな足跡を残す事件のキー・パーソンであったことを告白したフェルトは、その3年後の2008年に95歳で娘に看取られて安らかに永眠する。
 『ザ・シークレットマン』は、2006年にフェルトが出版した自伝『あるGマンの生涯:FBI、ディープ・スロートであったこと、そしてワシントンにおける名誉との葛藤』(A G-Man`s Life: The FBI,Being `Deep Throat’and the Struggle for Honor in Washington, 2006)を基に構成された。『大統領の陰謀』では、若い颯爽(さっそう)とした記者二人がヒロイックにかっこよく登場したが、権力に屈しない本物の英雄は、「ディープ・スロート」ことFBIの副長官マーク・フェルトであったことを本映画は明らかにする。歴史の闇に消えていくかと思われた「ディープ・スロート」の正体を明かした告白の自伝をあますことなく、公平な目でみつめて映画化した点が、この映画の画期的なところである。「ウォーターゲート事件」に詳しくない若い世代や、アメリカの政治史に関心のない人々にとって、この映画は詳細すぎてわかりにくいかもしれない。しかし、アメリカの民主主義の危機を克明に公平に描ききったその姿勢にこそ『ザ・シークレットマン』という映画の価値と見どころが存在する。さらに謎の男「ディープ・スロート」氏の公人としてばかりではなく、私人としての素顔も明らかにした点がすばらしい。

★ディープ・スロートはどういう男だったのか? ーー 大局を見るバランス感覚に優れた男
A.公人として――ディープ・スロート氏がどういう男であったかを一言で表現するならば、大局を見るバランス感覚に優れた男だと言える。マーク・フェルトはFBIという組織に全身全霊で忠実につくした受け身の男にとどまらなかった。48年間FBI長官を務めたJ. エドガー・フーバーの死後、FBIをホワイトハウスの支配下に置こうとたくらんだニクソン大統領は、捜査にかけては素人だが忠臣であったパトリック・グレイをFBI長官に据えた。次期FBI長官になることを自他共に疑わなかったフェルトだが、辞任せず黙ってグレイの下で働く。しかし、フェルトは大統領の腹を知ると、自身の危険を顧みず、一計を案じて、大統領の横暴からFBIという組織を守ろうとする。ディープ・スロートとなって、大統領の魔の手がFBIの権限を狭め、自由を奪おうとするのを巧妙に秘かに妨害する。フェルトにとって、自分の安全よりもFBIを守ることが祖国アメリカの健全な発展に必要だという使命感を持っていたためであろう。フェルトは、自分個人の出世や安逸を犠牲にしても大統領の行き過ぎた権力行使から警察の組織を守ることが、アメリカの民主主義の繁栄と平和に結びつくことを知っていたからである。フェルトは、FBI組織に閉じ込められた忠犬に終わらず、FBIの、そしてもっと大きくアメリカの民主主義の番犬でありえた男である。フェルトは、自分がディープ・スロートであったことを隠し通さずに、適切な時期を見て公表し、告白している。これもフェルトの優れたバランス感覚と歴史上の意味を知らせる大局を見通す視点のなせる業であろう。
B. 私人として―フェルト氏は、円満な家庭人であったが、家庭内の悩みを抱えていた。美人で夫思いの妻オードリーは、躁鬱病に苦しんでいたからである。両親に捨てられ、里子に出されたが、そこからも追い出されて孤児院で成長したオードリーは、不幸な生い立ちのせいだろうか、情緒不安定で、必ずしも良妻賢母ではなかったようである。オードリーは夫も子供も大切にしていたが、度重なる転勤と夫の秘密の任務の重圧と夫の多忙に孤独を募らせ、娘ジョアンとの仲もしっくりいかなかった。その結果、ジョアンは家出をして行方不明になるが、フェルトはあらゆる手を尽くして娘の行方を突き止め、母となってヒッピー暮らしをしていたジョアンを取り戻す。フェルトは、難しい娘との関係においても匙を投げず、根気よく努力を続けて、晩年には娘と幸せな関係を築く。しかし、ウォーターゲート事件に巻き込まれ、夫の裁判によるトラウマからうつ状態をこじらせた妻オードリーは拳銃自殺をしてしまう。フェルトが妻の自殺を世間にも娘にも隠していたために、オードリー自殺の場面は映画には直接登場しないが、愛妻の死もフェルトは冷静に受け止め、いたずらに騒がず、一人で乗り切ったのであろう。

 ディープ・スロートの仮面をかぶったマーク・フェルトは、頭脳明晰で冷静沈着、強い意志を兼ね備えるが、心の中は愛と理想に燃えた男だと映画は語っている。大柄でいかつく、象のような目をしたリーアム・ニーソンの名演技が、ディープ・スロート氏の外側に表れた冷徹な有能ぶりばかりではなく、内に秘めた男のやさしさと熱い心を見事に表現している。アメリカの理想は、こういう男によって支えられてきたのだと思わせる。夫を慕いながらも苦しむ妻オードリーを演じるダイアン・レインも悩める中年女性の魅力を漂わせる。

©2017 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2017. Dec.24.

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