ティエリー・トグルド―の憂鬱

©2015 NORD-OUEST FILMS-ARTE FRANCE CINEMA2015年
第68回カンヌ国際映画祭の男優賞受賞、ブリゼはエキュメニカル審査員賞受賞

『ティエリー・トグルドーの憂鬱』 原題La loi du marche
製作年2015年、製作国フランス、92分、フランス語、 配給 熱帯美術館、 宣伝協力 ポイントセット
スタッフ:監督ステファヌ・ブリゼ、 脚本ステファヌ・ブリゼ&オリビエ・ゴルス
キャスト:バンサン・ランドン、マチュー・シャレール、カリーヌ・デ・ミルデック
オフィシャルサイト:http://measure-of-man.jp/
2016年8月27日(土)よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国にてロードショー


『ティエリー・トグルド―の憂鬱』――歯車になりきれない男

                         清水 純子

★元エンジニアのトグルド―
ヴァンサン・ランドンにカンヌ国際映画祭、フランス・セザール賞主演男優賞W受賞をもたらした『ティエリー・トグルドーの憂鬱』は、観客動員数100万人のフランス社派ドラマである。ティエリー・トグルドー51歳は、仕事熱心な中堅の元エンジニアだった。「だった」ということは、「今は違う」ということである。トグルドーは、従業員を一斉に大量解雇した会社のせいで目下失業中、一年半にわたる失業保険の受給期間も切れようとしている。工事現場の機械操縦の職業訓練を受けても就職はできなかった。妻と障害者の息子を養うトグルドーには家のローンも残っている。トグルドーは、不当に従業員を解雇した会社を相手に裁判を起こす運動の重要な構成員だが、家族のことを考えて、組合運動を切り上げて職安に通う。でもうまくいかない。履歴書の書き方、面接の受け方の指導を受けるが、自分よりも若い人々から辛辣な批判を受ける――姿勢が悪くてやる気があるようには見えない、シャツの上のボタンが開いていて遊び人風、笑顔がない、もそもそ言って何を言いたいのかはっきりしない、この人に話しかけたいという気持ちにはならない等。貯金が底をついたトグルドーは、銀行に借入相談に行くが、アパート売却と生命保険加入を勧められる始末。思いあまったトグルドーは、思い出のトレーラー・ハウスを売りに出すが、買いたたかれて売る気力もうせる。八方塞がりのトグルドーがやっとつかんだのは、スーパーの警備員の仕事。自分の技術をいかせる職種ではないけれど、進学希望の高校生を抱えたトグルドーに選ぶ自由はない。雇い主に感謝して仕事をこなす忠実な警備員としてトグルドーは、徐々に信頼を得ていく。収入を得て不安が去ったトグルトーの家庭は、習ったダンスを妻と踊り、喜んだ息子がたどたどしいステップを共に踏み、笑い声につつまれる。

★警備員トグルドー
しかし警備室の監視カメラで万引きを見張り、あやしい客をみつけると通報する毎日を繰り返すトグルトは、この仕事の冷酷さ、非人間性に次第に疑問を覚える。万引きにはしる者に共通するのは、社会の弱者としての特性だった。お金がない、仲間に脅されているなど事情は様々だが、彼らを警察に通報する受け渡し役がトグルドーなのである。トグルドーは、自分はスーパーで不正をする不審者を嗅ぎわける犬にほかならないことを自覚する。そんなトグルドーにとって耐えがたい事件が起きた。勤続20年以上のベテラン女レジ係がクーポンの不正使用でつかまり、謝罪もむなしく即刻解雇される。絶望した彼女が店内で自殺しているのが発見される。自殺にもかかわらず、彼女は教会での葬儀を許され、本社は人事部長を派遣して、彼女の死に責任を感じることはないと従業員の説得にあたる。自殺した彼女に薬中毒の息子がいて苦労していたことを知って、トグルドーを会社に縛りつけていた綱はぷつんと切れる。トグルドーは、勤務時間中なのに職場を放棄して帰路を急ぐ。

★パンを捨てて良心を選んだトグルドー
トグルドーは、自分と似た境遇の者を破滅させてしまったことが耐えられなかったのであろう。トグルドーは無言で職場を後にするが、観客はトグルドーの良心に感激する。「人はパンのみで生きるのではない」ことを身をもって示したからである。たとえ明日から再び職探しの苦労と家族の不安と不満が待っていようとも、トグルドーは人間としての品性、正しいと思ったことを黙って行動で示したからである。トグルドーのような潔い行動は、家族を養っている男にはふつうできない。

★企業の歯車である男たち
男たる者は、企業の歯車になることによって、社会の一員として安定した居場所を得て、家族を養ってきた。理不尽なこと、性に合わないこと、不愉快なこと、悔しいことのすべてを、一介の歯車は我慢して黙々と働き続けてきた。「ええい、こんなところやめちまえ!」と思ったことは、宮仕えを経験した者ならば一度や二度ではなかったはず。
しかし、やめた後に何があるのか? 失職、つまり食べていけないことは、今以上の苦難を意味する。だからみな怒りを押し殺して見ざる、言わざる、聞かざる、を実行して黙々と働くしかない。

★歯車の宿命
歯車は、「ある組織を動かしている仕組み、またその要因」を比喩的に表し、工場や労働者を象徴する。無産階級に生まれた者は、資本を持つ者の下で働くしかなく、歯車として生きることを運命づけられている。たくさんの歯車を動かす企業は、作業の効率化によってより多くの利益を得る。コスト削減、生産性向上を標準化してマニュアル化して、効率化した作業を滞りなく実行することによって、収益の拡大をもくろむ。雇い主である企業は、マニュアル化された業務の手順を歯車にたたきこみ、言う通りに遂行する歯車のみを認める。企業は自分の頭で考えて工夫する歯車を求めていないことが多い。企業の仕組んだ公式や定理を暗記して、無批判にそれを応用して問題解決をはかる歯車が望ましいとされる。周りとかみ合わず、独自の違った動きをする歯車は、組織の故障のもとであり、破壊要因になりうる。そんな歯車あるいは作業員はいらない、邪魔である。

★トグルドーに共感するフランスの雇用事情
トグルドーの離職は、企業から邪魔扱いされたためではない。最初の時は、企業の都合による一方的解雇である。このことによってトグルドーは、企業の正体を知ったに違いない。懸命に働いても自分は歯車でしかない、代わりはいくらでもいるし、不要になれば捨てられる運命にあることを悟った。そんなトグルドーだから、やっと得た職場でも、耐えられないことを我慢しても報われないことを知って去ったのである。ここまでだったら、どこの国の誰にでも起こるきわめて一般的なできごとであり、やむを得ない決断だと納得する。しかし、トグルドーのドラマに100万人ものフランス人が共感したのは、失業と求職活動がセットになって生活を圧迫するフランスの現実が存在するからである。フランスの失業率は、他のEU主要国と比較しても高く、10.3%(EU統計2013年)である。失業率の高い職種は、ブルーカラー労働者(14.3%)と事務職員(10.1%)である。失業率は、教育水準が高くない職種で高い。さらに最近では、失業は身近なものになり、それに従って将来に悲観的なフランス人が増加している(鈴木)という。

フランスでは、正社員の雇用に対して社会的保護が手厚いために、雇用者に負担が大きくのしかかり、企業は賃金の安い他国へと逃げ出して、その結果産業の空洞化が起きた。そのために人口に対して、フランス国内では雇用が少なくなってしまった。社会主義政権下に長く置かれたために、産業技術力が衰えて国際競争力を失ったことも経済停滞の原因だと言われる。トグルドーのような厳しい状況に置かれているフランス人労働者は、多く存在する。そんな状況の中で人間性の回復と尊厳を願って、一時的にせよ、生きる糧であるパンを捨てたトグルドーの勇気に、人々は共感し、拍手を送った。

★トグルドーを理解できいのは幸せな証拠?
企業には支配する者の考えや方針は存在するが、支配される歯車が納得する正義や公正さは存在しない。あなたがもしもトグルドーの気持ちがよく理解できないとしたら、それはとても幸福な生活を送っている証拠である。人間への理解という点では悲しいことかもしれないが、生き物としては感謝すべき安逸な状態なのかもしれない。

参考文献:
鈴木宏昌 「フランスと失業問題」『オルタの視点』http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%A8
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