ティエリー トグルドーの憂鬱 藤田

 

©2015 NORD-OUEST FILMS-ARTE FRANCE CINEMA2015年



『ティエリー・トグルドーの憂鬱』~窮地に立った人間の真のあり方を問うドラマ~                      

 白梅学園大学  藤田久美子 

 映画の中には、一見派手で、観ている間は楽しくないわけではないけれど、2,3日もすると、どんな内容であったかすっかり忘れているようなものも多い。しかしこの映画はそういう映画の対極にあると言えるものである。確かに派手な要素は何もないけれども、何か月経っても、幾つかの場面を思い出すことができ、そのメッセージについて考えたいと思わせるのである。そして、良い映画、観るべき映画、それについて語るべき映画とはこのような映画であるのではないだろうか。 主役のティエリーを演じているのは、現代フランス映画界を代表する名優であるヴァンサン・ランドンである。往年の英国人俳優のデヴィッド・ニーヴンを彷彿とさせる苦み走った中年男性の彼は、洒脱な役も似合いそうな魅力のある俳優だが、この映画では、長年エンジニアとして働いていた会社から解雇されて、必死に職を求める男を熱演している。



【見事なドキュメンタリー・タッチの手法】 
 画の出だしは、勤めていた会社から集団解雇された男たちが、今後の対応を話し合う場面である。ティエリーも勿論その中の一人である。男たちは、時折激しく感情をぶつけ合いながら、会社への怒りを吐き出し、不安な心をさらけ出す。しかしながら、俳優たちの演技は極めて自然で、まるで、テレビのドキュメンタリー番組を見ているような気分にさせられるのだ。そしてそれは、この冒頭の場面に限らず、映画全体を通して言えることである。殊更に説明的な台詞もドラマティックな道具立てもなく、この映画は、何とか仕事を見つけようとあがく一人の中年男の姿を、淡々と描いていく。就職のための面接の場でも、若い人々がほとんどの就職訓練の場でも、ティエリーのような中年男性の再就職は極めて難しいということが、ヴァンサン・ランドンの抑制のきいた名演技によって示される。

 

ティエリーの人となり、彼の家族】 

 ティエリーは恐らく30年以上のキャリアを持つエンジニアであり、彼にはそれだけの自負もある。その彼が、就職訓練の場では、自分よりもずっと若い男にいろいろと欠点を指摘される。同じ求職者の立場であり、致し方のないこととはいえ、彼にとってはプライドを傷つけられる屈辱の体験である。スカイプを使っての慣れない面接に向かう彼の緊張した姿など、中年になってから再就職をしようとする人の哀感が、十分じっくりと、しかしべたべたとした感情表現なしに描かれ、同じ立場の人々でなくとも、必ず心をつかまれるであろう。 ティエリーがこのように必死に仕事を探そうとするのは、大事な家族がいるからである。彼には、妻とかなり重い身体障碍者である十代の息子がいる。妻とダンスの練習を楽しむ場面にも、一家で食卓を囲む場面にも、ティエリーの、不器用ながら誠実な人柄が十分に感じられる。彼は、頑固一徹ではあるけれども、どこにでもいる家族を心から愛し、ただ家族との慎ましい生活を願う男である。

【スーパーの警備員の仕事を得た彼に降りかかるものとは?】  

 ティエリーはやっと希望が叶って、スーパーの警備員として再就職できることになる。それは巨大なスーパーで、ティエリー達警備員は、何台ものモニター画面を見ながら、万引きなどの不正がないかどうかを調べるのだ。日本のスーパーでも、万引きによる損害は大変多く、特に高齢者の万引きが近年増えているそうで、それには、経済的困難、認知症、孤独など複雑な背景がありそうだというリポートを時折目にする。フランスでも、状況はそう違わないのだろうか。ティエリーも、あまり気が進まないながら、万引きを告発する仕事にも徐々に慣れていき、本当に金がなく、やむなく万引きをしたという高齢者の告発に立ち会ったりもする。 スーパーとてビジネスであり、利益を追求し、損害をできるだけ少なくしようとするのは当然のことである。従って万引きの取り締まりは、相手にどのような理由があろうとも、当然行ってしかるべきものであろう。さりとて、貧しい高齢者を告発したりするのは、いかに仕事とはいえ、ティエリーにとってあまり気分のいいことではない。その彼の心の様子が、冷静に、淡々と仕事をこなしていく彼の姿から垣間見える。彼のように、専門技術を持ったエンジニアとして仕事をしてきた人間にとって、スーパーの警備員のような仕事は、全然畑違いであり、出来ればやりたくはない仕事であろう。しかし彼には仕事を選ぶことなど許される訳がないのだ。
 そうこうするうちに、彼は、客の不正のみではなく、同僚の不正をも暴かなくてはならないのだと知ることになる。それは万引きではなく、ポイント獲得に関わる不正であった。そしてある日、彼の同僚である、子持ちの中年女性が、そのポイント獲得に関わる不正で告発され、それが原因で解雇されることになる。彼女の息子はティエリーの息子と同様に障碍者である。彼女は、何とかして解雇だけは勘弁してほしいと会社に訴えるのだが、その思いが聞き届けられることはなく、解雇され、その後、自殺してしまう。 彼女の葬儀の場面は、この映画の中で最も注目すべき場面だと言えるであろう。葬儀はカトリック教会で行われるのだが、カメラは、通常の映画のように、礼拝堂全体や、会衆の様子や、祭壇や神父の様子などを映すことなく、彼女の棺とティエリーの姿のみを執拗に追い続ける。この場合、他の同僚達のこと、彼らがどう考えるか、などということは、一切関係ないのだ。死んだ女性は、彼の同僚ではあるが、特別に親しい間柄というわけでもない。二人の共通点と言えば、共に障碍者の息子を持っているということで、そのことは相当大きな点であろう。
 しかしそうした共通点がなくとも、彼は彼女の死に責任を感じたことだろう。つまり、彼はそのような人間なのだ。そして次の場面は、会社の更衣室でのティエリーの姿である。彼は、そこで仕事用のスーツを普段着に着替えて、昼間の町に出ていく。彼はこの職場を辞めたのだ。映画は、それ以上何の説明もなく終わっている。上司や同僚達の反応も、家族の反応も何も描かれない。そしてそこが、この映画の良さなのである。

【この映画が訴える真の問題とは?】  

 の映画は、単に中高年の求職の困難さや、身内にも厳しい会社組織の問題などのような現代特有の社会問題を扱ったドラマというだけではない。利益追求を最も優先する資本主義社会の問題も当然重要な問題ではあろう。しかし決してそれだけではないことは明白である。ティエリーはスーパーの警備員であり、不正を摘発するのが仕事だったが、警察官や裁判官、検事や弁護士、あるいは教師の場合でも、ティエリーと同じような魂の持ち主であれば、彼と同様の苦しみ、葛藤を経験するであろう。 法や規則に照らして良くないことを行ったものがいる場合、それを罰するのは当然であるが、その時に、そうしたことを行った理由を考慮し、また、その後の人生について配慮することまでやらなければならない。罪を犯した人間、法や規則を破った人間に寄り添うということである。法や規則は人のためにあるのであり、人が法や規則のためにあるのではないからだ。こうした配慮があったなら、ティエリーの同僚の女性は、自殺までしなかったのではないだろうか。彼女の自殺についていえば、会社は当然のことをしたのであって、何ら責任を感じる必要はないと言えるかもしれない。
 しかし彼女の不正を告発する立場にあったティエリーは、確かに責任を感じたのであり、だから仕事を辞めたのだ。ティエリーはまた職探しを始めなくてはならず、それはきっと厳しい道のりであろう。彼のような人にとって、世の中を生き抜いていくのは容易いことではないであろう。しかし彼のような人がいることが、この世にとっての救いであることもまた確かなことだ。

 

©2016 K.Fujita. All RightsReserved. 27 August 2016

 

 


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