扉の影の秘密



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『扉の影の秘密』 (原題Secret Beyond the Door)
1948年 アメリカ合衆国 サスペンス
スタッフ:
監督&製作: フリッツ・ラング / 脚本: シルヴィア・リチャーズ / 原案: ルーファス・キング/  音楽: ミクロス・ローザ / 撮影: スタンリー・コルテス(英語版)/ 編集: アーサー・ヒルトン(英語版)/
キャスト:
シリア・バレット : ジョーン・ベネット/マーク・ラムフェア : マイケル・レッドグレイブ/ キャロライン(キャリー)・ラムフェア : アン・リヴィア/ミス・ロビー : バーバラ・オニール(英語版)/ イディス・ポター : ナタリー・シェイファー/リック・バレット : ポール・キャヴァナー(英語版)/ パキータ: ローザ・レイ/ボブ・ドワイト: ジェームズ・シー(英語版)/ デイヴィッド・ラムフェア: マーク・デニス
上映時間: 98分、モノクロ、 言語: 英語
DVD販売元: 紀伊國屋書店
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扉の影の秘密』フリッツ・ラングの悪夢のフィルム・ノワール
                                                       清水 純子

フリッツ・ラング (1890~1976年) 監督の 『扉の影の秘密』 (1948年) は、忘れられた佳作である。
アメリカで公開当時、批評家の評判が芳しくなく、興業的にも成功しなかったので、失敗作だとされてきたが、現代的視点で鑑賞するならば、暗示に満ちた手のこんだ芸術作品である。
なぜヒットしなかったのかについては、アメリカの批評家や観客にこの作品の暗示的意味合いが十分に理解されなかったためだと考えられる。
モイラ・フィニ―(Moira Finnie)がダリル・ザナック(Darryl F. Zanuck)の言葉を引用して説明するように、 「彼[ラング]は、われわれ[アメリカ人]に見えないものを見ているから」 ('Because he'll see things that we don't,'")なのである。

ユダヤ系ドイツ人であるために、ヒットラーが政権を握った母国ドイツを逃れて、アメリカにやってきたラングの視点は、重層的である。
なにげないミーハー的な一般論に見え、聞こえる場面やせりふが、実はテーマと密接に絡み合い、言外の複雑な意味を持っている。
娯楽性と芸術性がうまくかみ合っているのがラングのすぐれた点なのである。

ユダヤ系であるために祖国を後にして、新天地アメリカのハリウッドで仕事をしなければならなかったラングは、ハリウッド的娯楽との親和性と近似性を見せながら、ドイツ表現主義(20世紀初頭、作者個人の不安や反逆の主観的感情を投影して、作品を極度に変形・歪曲して社会の矛盾を批判する芸術傾向)の主題と手法をハリウッド映画に織り込んでいる。
自らの命をかけて異文化の間を生き抜かなければならなかったラングの複雑な精神構造と表現形式は、相対的安全地帯にあって、表現の自由を侵害されなかった当時のアメリカの一般大衆の理解を超えていたのであろう。

フィルム・ノワールの騎手であるラングは、20世紀の3大発明とされる「映画、ファシズム、精神分析」のすべてに大きく直接かかわっている。
フィルム・ノワールの 「ノワール」はフランス語で「黒、闇」を意味し、1940年代から50年代にアメリカで製作された光と影を強調した表現主義的な「犯罪映画」や「ハードボイルド映画」をさす。 
ドイツ表現主義にならって、不安をテーマにとり、歪んだ影の多い画面に特徴がある。
フィルム・ノワールは、光と闇のコントラスによる明暗法の照明を用いて、観客の視覚を刺激して心理的不安をあおり、主人公のモノローグ(一人称の語り)、フラッシュ・バック(回想形式)などの複雑な表現技法を駆使する。
フィルム・ノワールは、主としてナチスの迫害を逃れたユダヤ系亡命映画関係者が持ち込んだ映画の表現形式である。
したがって、行き場のない閉塞感と悲観的世界感が作品を支配し、当然のことながら主人公も堕落や破綻を経験している。

登場人物たちは、互いに裏切りや残虐性、犯罪などの人間性の暗い側面に直面し、凶暴性と破滅・退廃性などを内蔵する。
人間の暗い、隠された側面、つまり潜在意識あるいは無意識を探る作業には、フロイトをはじめとする精神分析の助けを借りなければならない。
サイコ・サスペンスを題材にしたフィルム・ノワールは、必ずといっていいほど精神分析の知識と対をなしている。
フィルム・ノワールは、伝統的秩序や市民道徳への反逆、ドイツ表現主義の流れを汲んで伝統的芸術様式の破壊を描いたものが多く、内容においてセンセーショナルでインモラルであった。
したがって、当時のアメリカの映画検閲制度ヘイズ・コード(Hays Code、the Breen Office Production Code、1934~1968実施)の規制を逃れる必要があった。

その結果、フィルム・ノワールは、暴力的不道徳な場面の直接描写を避けて、婉曲な表現や隠喩、暗示的事象によって、観客に暴力的不道徳な場面を想像させる手法をとることになった。
アメリカの倫理規制を守って上映を妨害されないために、フィルム・ノワールは、間接的なわかりにくい表現をとらざるをえなかったのである。
その結果、察しの良い一部の観客にしか価値がわからない弱点を持つが、その反面、表現形式の洗練と工夫によってきわめて芸術性の高い数々の映画が生まれる。
                  

『扉の影の秘密』 がフロイトの理論に多くを負っていることは明らかである。
冒頭の場面は、ヒロインのシリアが夢の持つ意味について語るヴォイス・オーバー(画面に現れない自身の心中を語る声)・ナレーションによって始まる― 「夢の持つ意味について書いた本を読んだことがある。
船の夢を見る女の子は、安全な港に着くけれど、ラッパ・スイセンの夢を見る子には危険が迫っていると書いてあった。でも危険なんて考えている時じゃない、今日が私の結婚式なんですもの」 (I remember, long ago I read a book that told the meaning of dreams. It said that if a girl dreams of a boat or a ship she will reach a safe harbor. But if she dreams of daffodils, she is in great danger. But this is no time for me to think of danger, this is my wedding day)。
兄ロバートが妹シリアに結婚をそそのかして「カーティス?彼はいい精神分析医だ」(Curtis? He's a brilliant psychoanalyst.)と言い、結婚披露のパーティではシリアと友人イディスの会話――「なんて素敵なパーティなんでしょう。わたし抑圧の毒物を追い払いたいわ」「フロイト氏の本を読んでいるということね」「ダーリン、私の潜在意識は地雷よ」(Oh, it's a wonderful party. I got rid of gallons of repressed poisons. Paging Mr Freud. – Oh, darling, my subconscious is a booby trap!)、さらに心理学専攻の女子学生の「男性がガールフレンドや妻を殺害する時、多くの場合、自分の母親に対する無意識の憎しみがもとにある」(In many cases the murder of a girlfriend, or a wife, has its psychological roots in an unconscious hatred for the mother.)とせりふが続く。
この女子学生は、精神分析では、心の葛藤や潜在意識を告白することによって犯罪が防げる可能性があるとすることも示唆して、物語の結末を暗示する――(A pity for him that in his day nothing was known yet about psychoanalysis. . . . Something happened to him here - perhaps in his childhood – and he'd made a resolution in this room to kill. His conscious mind had forgotten all about it but... But he still killed. Naturally, but he didn't know why - he just had to. But if he'd been able to tell someone, like a psychoanalyst, what it was that happened here no murder would have been necessary.)。

『夢判断』を著したフロイトは、夢は何らかの形で人間の願望、それも本人が自覚していない潜在的な願望を表す場合が多いと言う。
はっきり語られていないが、シリアはラッパ・スイセンの夢を見たに違いない。
夢が変装した無意識の願望を表すならば、船の夢を見なかったシリアは、危険が迫っていることをうすうす感じている。聡明な観客は、映画は結婚がシリアに危険をもたらすことを暗示していると気づく。
そして危険な結婚こそが、シリアの潜在的願望だったことも察するはずである。
兄ロバートが太鼓判を押す誠実で腕のいい弁護士が求婚していたにもかかわらず、シリアは好き好んで正体不明の危うい男を夫に選んだからである。

シリアの夢判断のモノローグの後、フラッシュ・バックを用いて、シリアと謎の建築家マークとの出会いが回想される。メキシコの街中で、ナイトクラブのタバコ売りの若い女をめぐって、二人の男が剣で死闘を繰り広げる。
命をかけた三角関係の清算に魅せられたシリアは、危険を感じながらもその場を動くことができない。
そんなシリアをじっとみつめる男の視線をシリアは感じる。それがマークであった。
シリアの「化粧の下に隠された裸の素顔」とは、死への欲望であることをマークは瞬時に見抜いた。
死に魅せられて、危険も顧みずに自らを提供する美女こそが、マークが求めていた理想の女だった。
殺されたい女と殺したい男が、死への欲望を共有しあった瞬間に恋の火花が散る。
「眠れる森の美女」だったシリアは、マークによって眠っていた危険な欲望を目覚めさせられた。
危険な匂いを求めるシリアの潜在願望を見すかしたマークは、自分こそがふさわしい男であることを直感して近づく。
マークに一目惚れしたシリアは、マークのことを何も知らないのに結婚に突き進む。
ハネムーン中に急に姿を消したり、シリアに突然冷たくなったり、ニューヨーク郊外の豪華だが不気味な家で、得体の知れない姉と召使に囲まれ、先妻エレノアとの息子デイヴィッドまでもうけていたマークに不審の念を抱くが、危険な男に惹かれると言う点で図星を指されたシリアは、マークから逃れることができない。
マークは、「殺人は愛より強い感情が引き起こす」という持論を立証するために、歴史的に名高い殺人が起きた部屋を忠実に再現して、自分の屋敷に移築して収集する奇妙な趣味がある。
マークは、「人を殺したい」潜在願望を隠し持ち、日常生活においてその欲望を抑圧した男であることは確かである。
殺したい男マークと殺されたい女シリアは、死を軸にした能動態と受動態の様態であり、デカダンスに溺れた同志であり、伴侶であるから、磁石のN極とS極のように惹かれ合う。

マークはシリアを愛しているはずなのに、女性には辛辣で批判的である。
マークはシリアに向かって無礼に傲慢に女は男よりも思考力において劣っていると言う――「女には考える力がないんだ。思考力は男の特権さ。女は自然に近いから考えずに感じるのだ。 女は子供や動物と同じだから幸せだと言った詩人がいたな。だけれど人間はそういうわけにはいかない。 知性が勝ると本能が衰えるのだ、つまり我々男は、過度に文明化したせいで抑制されているからね」 (I might have known – no woman can think! . . . Thinking is the prerogative of men. And because women are nearer to nature, they don't think, they feel. . . . There was a poet who said 'women are happy and children and animals, but we human beings, we are not'… As intelligence improves, instinct withers away. We become over-civilized, inhibited.)

女性蔑視のマークの発言は、女性の権利拡張にうんざりした一般男性の気持ちを披露しているように見せて、実は それだけで終わらない深い意味があることが徐々にわかる。そこがラングのすごいところであり、怖いところである。
マークの女性に対する屈折した思いには病的なものがあることが明らかにされていく。
愛を拒絶した母への愛と憎しみ、母、姉、女召使、そして妻によって人生を縛られ、支配されてきたことへの怨みがマークの意識下に蓄積され、マークを人格的にむしばんでいたのである。

マークは、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』のノーマン・ベイツ青年を思わせるが、それより前に製作されたために、過激な展開を避けて『サイコ』ほどショッキングでグロテスクなストーリー展開にならない。
『扉の影の秘密』は、サイコであるのはマークだけでなく、とりまく女たちも異常な人物たちである。
周りの召使いや家族の挙動もシリアのマークへの疑惑を強める――病死したとされる先妻エレノアにマークは「献身的に毎日薬を飲ませていた」のであり、デイヴイッドは「母エレノアは父に殺された」と言う。
姉はマークが母の亡くなった日に庭のライラックをすべて切り落とさせたと言うが、駅でマークを出迎えたシリアの胸にさしたライラックを見てマークは顔色を変えた。
顔にいつもスカーフをまいて秘かにシリアを監視し続ける秘書のミス・ロビーも挙動不審である。
姉キャロラインの弟マークに対する支配欲は異様であり、マークに横恋慕する召使のミス・ロビーに いたっては犯罪者である。

お金持ちで美人のシリアは、相手に不自由しないのに、なぜかマークに惚れている。
マークの異常性と異常な環境を認識しても、マークから離れずにわざわざマークの元に戻って行く。
危険を顧みることなく、マークを知り、理解したがるシリアは言う――「昨晩までは命が惜しかったけれど、あなたなしに生きるぐらいだったら死んだほうがいい。 あなたのいない人生なんてじわじわ死んでいくのと同じこと」( Last night I wanted to save myself, but I'd rather be dead than live without you. That would be a slow death - for a lifetime)。
なぜなのか? それはシリアはマークの危険なところに興味があるからである。
人間の深層心理に興味を持つシリアは、自分の身を危険にさらしても好奇心を捨てられない性癖である。
シリアとマークは、死に魅せられている、つまり深層心理において、死への親和性を共通に持つ。
二人は、死へのデカダントで堕落した欲望に身をまかせた連帯感で、分かちがたくつながっている。
死という概念をめぐって、マークはサディズムを、シリアはマゾヒズムの役割を秘かに分担する。
二人は、道徳的悪、つまり罪(sin)において共犯関係にある。

シリアの怖いもの好きの精神は、『扉の影の秘密』を観客席から覗いている観客にはわかるはずである。
自分の身が安全か否かという違いはあるが、シリアも観客も基本的には同じ嗜好の持ち主のはずである。
怖いものが見たい――人間には妙な自虐的な性癖ある。
悪夢の映画は怖いけれど見たい、見れば嫌な気分になることもあるけれど、開放された気分にもなる。
身代わりの恐怖は人間の負の原始的本能を満足させるのだろうか?

マークはシリアを絞め殺そうと持っていたスカーフで、本当は何人殺したのか?
シリアが蝋燭をつぶして鋳型をとり、合鍵を作ってこっそり開けた第七番目の部屋で、青髭公のようにマークは 先妻エレノアを殺したことにされているが、それは本当に起きたことなのか?
なぜマークは捕らわれていないのか? エレノア殺しの真犯人は他にいるのだろうか? 
姉キャロラインもミス・ロビーも怪しい。
マークの息子デイヴィッドを火事から救ったことを恩に着せて居座っていたロビーだが、その火事も本当に事故だったのだろうか?
第七番目の開かずの部屋、つまりマークがエレノアを絞殺したかもしれない部屋の鍵を開けたシリアは、マークの共犯者として「扉の影の秘密」を隠蔽して生きるのか?

『扉の影の秘密』は、マークとシリアの表面的一時的幸福感をもって幕が降りるが、作品に覆いかぶさる影、つまり謎や不安を完全に払しょくしない。
誰が本当の犯人なのか、誰が悪党なのか明かされないままで終わる。
当時のハリウッド調の明解なハッピーエンドでなく、部分的なオープン・エンディングである点もこの映画の現代性であり、当時の観客には消化しきれなかった理由かもしれない。

物語の真相を語る一つの鍵は、マークの奇妙な悪夢にある。
マークが寝静まった深夜、秘密に作った合鍵でシリアが第七の封印された部屋の扉を開ける。
この部屋が実は自分の部屋であることに気づいたシリアは、恐怖から森の中に逃げるが、マークが追ってくる。
次の瞬間、画面は真っ暗になり、女の悲鳴、そして法廷での裁判の場面が続く。
マークが被告と検察官の一人二役をつとめる奇妙な光景が展開される。
これはマークの二重人格の傾向を示す。
被告がマークの自我(監視されるもの、悪)、検事がマークの超自我(監視するもの、善)を表し、マークの無意識の自我の葛藤と人格分裂を暗示している。

マークは、先妻エリノアを殺したのは自分ではない、潜在意識において死を願ったかもしれないけれど、実行していない、無意識で考えることは罪なのか?と問う。
この点もラングの複雑なところである――キリスト教では欲情を持って女を見るならば、それは罪を犯したのと同じだと教えるが、はたしてそうだろうか?と問いかけているともとれる。
マークは、シリアを愛しているが、それゆえに殺したかった、衝動を抑えられなかったとも言う。
マークは、母、姉、先妻によって支配され、自分のやりたいことができなかったので女性が憎くなったと告白する。
この場面が悪夢であることは、朝になると姉が一人で朝食の用意をして「皆いなくなって困る」とこぼし、その後にシリアが戻ってくることから明らかである。

男とダンスにでかける母によって部屋に鍵をかけられ、閉じ込められたと信じてきたマイクにとって、鍵のかかった部屋はタブーである。
ハネムーンの最中にシリアが部屋に鍵をかけて入れなかったことから、マイクの態度が急変する。
マイクは、シリアの部屋に入ろうとしたことを否定し、一人で突然ニューヨークに立つ。
シリアに拒絶されたと勘ぐったマイクは、憎しみが引き起こす危険な欲望を抑えるためにシリアから離れたのだろう

扉とは、マークの女性への思慕と嫌悪感を隠蔽していた心の秘密の扉であり、マークの潜在意識、無意識を密閉した部屋だと考えられる。マークを深く愛し、死への欲望においてマークと対極の役割を果たすが、同じ磁場にいるシリアだけがその部屋に入ることができたのである。
マークの秘密を知り、マークの告白を聞いたシリアは、マークの心の病を治癒できる可能性を持つ。
だが結果は誰にもわからない、ちょうど精神分析が治癒に効を奏するかどうかわらかないように・・・

現代ではフロイト理論を応用したサイコ・サスペンス映画は数多くあり、1940年代当時は目新しく、見慣れないために難解であった象徴的表現にも今の観客は慣れている。
現代の観客は、この悪夢のフィルム・ノワールをより深く鑑賞できる環境にあるため、もう一度見直してみる必要がある。

参考文献:
Finnie, Moira.“SECRET BEYOND THE DOOR(1948) .”TCM(Turner
Classic Movies). 30 Sept. 2015. 〈http://www.tcm.com/tcmdb/title/89402/Secret-Beyond-the-Door/articles.html〉 

DVD: ラング、フリッツ(Lang, Fritz)(1948)、『扉の影の秘密』(Secret
 Beyond the Door)(アメリカ)、ユニヴァーサル・ピクチャーズ、紀伊国屋
 書店 販売・発売。

       
Copyright ©J. Shimizu All Rights Reserved. 2015. Sept 30