アンダー・ザ・スキン


(C) Seventh Kingdom Productions Limited, Channel Four Television
Corporation and The British Film Institute 2014

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』 
原題: Under the Skin
監督:ジョナサン・グレイザー 、原作:ミッシェル・フェイバー、 脚本:ジョナサン・グレイザー&ウォルター・キャンベル、 
出演:スカーレット・ヨハンソン、ポール・ブラニガン  
製作年 2013年、制作国イギリス、上映時間108分、配給:ファインフィルムズ
公式サイト:http://www.finefilms.co.jp/skin/
2014年10月4日(土)より、新宿バルト9にて公開

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』==一皮剥けばエイリアン

                            清水 純子

『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』は、映画が映像によるアートである ことを改めて認識させる。
つまり映画によるリスニング力アップを期待する学習者にはこの映画は それほど役に立たない。
なぜならばセリフがほとんどなく、人物の動作と風景の推移のみで物語は進行していくからである。
わずかな英語のセリフは、スカーレット・ヨハンソン扮する謎の美女(実はエイリアン)が、街中で孤独な男をハントする際に聞かれるが、それに応える男たちの言葉は英語ではない。
スコットランドが舞台なので、たぶんゲルマン語派のスコットランド語なのであろう。
何語にせよ、言葉が聞かれるのは映画の最初の方だけで、あとは映像のみで観客をひっぱっていく。

言葉の不在はこの映画の戦略である。
名前すら明かされない妖艶な美女(スカーレット・ヨハンソン)に化けて、無名で無知な身寄りのない男をセックスに誘い、 捕食するファム・ファタールは、実はエイリアンだからである。

この正体不明の美女が人間でないことは、バイクの男が投げ捨てた 若い女の死体の中から、まったく同じ容姿の女が抜け出てきて自分の遺骸をみつめた後、立って歩き出すことからわかる。 
女は、男を籠絡して交尾をすませた後、皮だけの抜け殻にして暗い沼に打ち捨てる。

この情けなき美女が変化のきざしをみせるのは、醜い顔のせいで誰にも相手にされない奇病の男と交わった時である。
はじめて鏡に自分の顔を映して眺める美女は、自分との心理的類似性を見たのか、この男を逃してやる。
女は自分も地球では心を通わす相手のいない、コミュニケーション不在の疎外された立場にあることを感じたのであろう。
以後、女の態度は変化しだす。
女は、家族連れが集う田舎町のカフェで、慣れないチョコレートケーキを食べようとするが、吐き出してしまう。
エイリアンである自分は男の血肉しかうけつけない体であることを思い知るのである。
異界の生き物である女は努力しても人間界では受け入れられない孤立した生き物であることをこの場面は示している。 
エイリアンの美女は、人間に対して興味と共感を覚えたために、弱みを有することになり、結局人間に滅ぼされる。

スコットランドの奥深い森に逃げ込んだ女は、森番にレイプされそうになる。
男が彼女の服をはぎとると、服の下の皮膚のそのまた下には得体の知れない真っ黒な肢体が潜んでいた。

女は肉襦袢を脱ぐように美女の肉体を脱ぎ捨てる。
驚いた森番は逃げ出すが、得体の知れない怪物を退治しようと戻ってきて、ガソリンと火で黒檀の肉体の美女を焼き殺す。

画面は、焼却された美女の灰が吹雪のように舞い散るのを映して終わる。
人間化をたどったエイリアンの女は、捕食する動物の域を脱して、人間の疎外状況を映し出す普遍的存在に昇格したのである。

映画は、後半を映像のみで進めることによって、
人間が陥りかちなコミュニケーションの不在と疎外感を強調する。
言葉の不在は、美しい魅力的な映像が存分に補っている。
スコットランドの美しいが荒涼とした風景はエイリアンの美女と その餌食になった男たち、ひいては人間存在の孤独と不信を象徴する。
雨に濡れて煙にくもるスコットランドの街中は、ものほしげで 人恋しい男たちの心象を映し出す。
スコットランドの荒波は、溺死体になった父を前に浜辺で泣きながら 死を待つ幼児の孤独と絶望感を強調する。
そして暗く、神秘的なスコットランドの森は、追いつめられた末に灰になって消える美女の存在のはかなさを雄弁に語る。

しかしなんといっても、映像の持つ力を最大限に活用するのは、 スカーレット・ヨハンソンの美しい肉体であろう。
この映画で初めてオール・ヌードに挑戦したS. ヨハンソンは、 均整がとれた美しい肢体で観客の眼をスクリーンに釘付けにする。
数多くの映画できらびやかな衣装やモダンなスタイルを身にまとってきたヨハンソンは、一皮むけば(アンダー・ザ・スキン)意外に健康的な肢体の持ち主であったことを示し、観客をあっと驚かせる。
ヨハンソンは実は着痩せするタイプだったのである。

ハリウッド映画の明快さを排した『アンダー・ザ・スキン』に リアリティーを添えるのは、ヨハンソンの肉体である。

映画が終わった後、観客の記憶に残るのは、ヨハンソンのヌードの存在感である。
逆に言うならば、この映画はオール・ヌードにまでなったヨハンソンの熱演によって支えられ、その曖昧さを救われ、長所に変えられていると言っても過言ではない。

映画のタイトル「アンダー・ザ・スキン」
(Under the Skin)は、「一皮むけば、実は」という意味である。
美女が森の奥で最後に人間の皮を一皮むいて、エイリアンの肉体を現す場面に観客は驚かされる。
美女のヌードの下に潜ませたエイリアンの黒い不気味な肉体と、ヨハンソンが粗末な衣服の下に匿っていた豊満な美しい肉体が映像上の皮肉なコントラストとして表される。
どちらも「一皮むけば、実は」(Under the Skin)の対照的な実体として提示されている。

『アンダー・ザ・スキン』は、SF仕立てである。
映画の冒頭では、月と地球のような物体が表れ、次に黒い円を取り囲む白い円がみえる。
この二重の白黒の円が人間の眼球であることはじきに判明する。
この映画が地球の外からやってきたエイリアンの眼を通して 語られた人間界の物語であることを暗に示している。

『アンダー・ザ・スキン』は、人間の世界と人間の習性を アレゴリカル(寓意的)に描いている。
タイトルの「アンダー・ザ・スキン」つまり「皮膚の下」に 人間が隠して普段は見せない欲望や孤独のせつなさをこのSF映画は暴く。
人間が皮膚として見せている社会的見栄や体裁をはがれた その下には見慣れない真っ黒な不気味なエイリアンの姿が隠されている。
一皮むかれて皮膚の保護を失った人間は生存を脅かされる弱い存在になりさがる。
皮膚を一皮むけば人間は皆、誰にも見せないエイリアンの姿を隠蔽しているからである。

しかし人間は皮膚の下のエイリアンを認めることはない。
人間の世界ではエイリアンは焼却され、闇に葬られる運命にある。
最後の場面の美女エイリアンの焼却されて空を舞う破片はどこへ行くのか?
宇宙に向かって昇天するのか?
それとも地球で新たな生命として甦る準備にかかるのだろうか?
『アンダー・ザ・スキン』はさまざまな空想を可能にしつつ、 余韻を残す独創的な映画作品である。

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