我は神なり 清水


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監督・脚本:ヨン・サンホ『新感染 ファイナル・エクスプレス』 製作総指揮:キム・ウテク
声の出演:ヤン・イクチュン/オ・ジョンセ/クォン・ヘヒョ/パク・ヒボン
2013年/韓国/ドルビーデジタル5.1ch/101分/原題:サイビ/英題:THE FAKE
配給:ブロードウェイ 配給協力:コピアポア・フィルム warekami-movie.com
配給:ブロードウェイ/10月21日(土)、ユーロスペースほか全国順次公開
オフィシャルサイト

<STORY>選ばれしは、神の子―。「あなたの信じていることは、“本当”ですか?」
ダムの建設によって水没することが運命づけられた田舎の村に、粗暴なトラブルメーカーのミンチョルが久しぶりに帰ってくる。ところがミンチョルの妻子を含む村人たちは皆、彼の不在中に建てられた教会に通い、若きカリスマ牧師ソンを崇めていた。
それがインチキ教団を率いる詐欺師ギョンソクの陰謀だと察知したミンチョルは、村人たちのなけなしの財産を狙うギョンソクの悪行を阻止しようと奮闘する。しかし村人も警察も札付きのワルであるミンチョルの言い分にまったく耳を傾けず、四面楚歌に陥った彼は“悪魔に憑かれた男”の烙印を押されてしまうのだった…。

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『我は神なり』――善悪二項対立の危うさ


                               清水 純子

★牧師ソンは神か? ワルのミンチェルは悪魔か?
 韓国の貧しい村のキリスト教徒たちを描いた韓国のアニメ『我は神なり』は、西欧の善悪二項対立による世界の分断概念が人間の生存を危うくする例を示している。
 ダム建設の立ち退き補償金に目をつけた詐欺師ギョンソクは、若いキリスト教のカリスマ牧師ソンを担ぎ出す。ソンを「神」と崇める無知な村人の信仰心につけいって、永住の棲み処としての教会設立、そして死後天国に入る権利獲得のために寄付金をつのり、だまし取ろうという魂胆である。苦労の多い現実を忘れて死後の世界に希望を託す村人たちは、我先にと献金をささげ、ギョンソクの計略は完成まであと一歩のところであった。そこへ暴れ者の中年男ミンチョルが舞い戻ってくる。粗暴なミンチョルは、賭け事と酒代の金欲しさに、娘の預金通帳を無断で持ち出して使いきる。妻はミンチョルの前に無力で、ただ泣いて神に祈るばかり。ソウルの名門大学に合格し、未来を夢見ていた娘は、絶望してキリスト教に救いを求める。美女である娘に目をつけたギョンソクは、娘をセックス産業で働かせ、神の意志だと信じこませる。牧師のソンは、ギョンソクの奸計に気づき、自力で教会の建設を決心するが、未成年の信者の娘と関係して自害させた過去を盾に脅かされる。娘の失踪、村人たちの狂信ぶりに驚いたミンチョルは、ギョンソクが指名手配されていることを警察に訴えるが相手にされない。素行の悪いミンチェルは、村人たちから「悪魔」とののしられ、ギョンソクの子分からリンチを受ける。信念を曲げないミンチェルは、村人たちの目を覚まそうと仮説の教会堂に火を放つ。操られたことを恨む牧師ソンは、ギョンソクを惨殺中に警察に踏み込まれて逮捕される。ミンチェルが監禁した娘は、暗室で自死していた。以後、妻はミンチェルと口をきくことはなかった。年老いたミンチェルの部屋の前には、食べ物が置かれ、杖をついてミンチェルは山の洞穴に向かう。ミンチェルは、ろうそくをともした祭壇に向かって一人祈りを捧げる。

★「善悪」二項対立の矛盾
 キリスト教が率いる西欧社会では、二項対立(dichotomy)の概念が幅をきかしている。相反する対立する二つの概念によって、物事を二分して、世界を二つの拮抗する力の存在によって世界を二分してとらえる考え方、思考様式を指す。この対立概念によって世界を分断する方法は、物事の理解を容易にすると同時に、時として大きな矛盾や葛藤、疑念を生み出すこともある。
 『我は神なり』は、韓国の物語だが、キリスト教を信じ、西欧流思考パターンをまねている。ここで描かれるキリスト教が正統派だとはいいがたく、キリスト教の名を語るインチキ教団でしかないことは明らかである。しかし牧師も信者も、キリストの教えに従っていると信じ、聖書を丹念に読み、教会に通い、全財産をつぎ込んで教団を支えようとする。しかし、自己犠牲と献身の尊さを説いたキリスト教の教えとは異なり、村人たちは天国への切符を得るという利己的欲望のために、ソン牧師は職務としての教会と信者保持のために躍起になっているにすぎない。キリスト教の名のもとに模範的信者をめざす彼らは悩み、努力しているのだが、自分のことしか考えられない彼らは神の子には遠い。皮肉なことは、神に一番遠い人物は、神の言葉を伝え、神と崇められていたソン牧師である。それに対して、「悪魔」とののしられた極道のミンチェルだけが、自分以外の人間のことを考えて、捨て身の行動に出たことも、もう一つの皮肉である。
 人間は、キリスト教流二項対立概念である「善と悪」、「神と悪魔」の概念によって簡単に分断され区分して整理できない。人間は、二つの概念で割り切れるような単純な生き物ではなく、善と悪、神と悪魔が入り交じり、時と場合に応じて対極のイメージを使い分けて、二つの両極端のものの間を振り子のように揺れ動く生き物である。人間は本来、清濁飲み込む存在なのに、どちらか一つのレッテルを貼って区別することが不自然であり、その無理が逆に悪を呼ぶ。ソン牧師がそのよい例で、彼は善人であろうと無理をしたために、逆に殺人と言う悪徳に染まることになった。信者の女性と恋愛事件を起こしたとしても人間だから仕方がない、騙されても、信者を救えなくても自分の力を超えたことだからやむを得ない、と割り切る謙虚さがあれば、ソンは悪に落ちなかった。逆に悪魔とみなされたミンチェルは、神の子ぶりっ子をする必要がなかったので、真実を見抜く目を失わなかったといえる。

★人間は信じるものなしに生きられるのか?
 監督・脚本のヨン・サンホは、「信仰について問うた映画ではない」と言っているので、キリスト教批判が目的ではない。ヨン・サンホは、「人間の信念の本質を問いかけてみたかった。・・・果たして人間は信念がなくても生きることができるのか? 間違った信念を持った人をあざ笑う権利が、私たちにはあるのか?・・・人間の持っている信念、信頼の本質について問いかけてみたかった」と言う(「ヨン・サンホ監督インタビュー」『プレスシート』)。
 悪魔のミンチェルは、えせキリスト教に惑わされなかったために、インチキが見抜けた。ワルのミンチェルには自分独自の信念という強い支えがあったからだが、ミンチェルの信念は娘の死を防げなかった。ミンチェルの告発によって信仰の支えを失った娘は、すべての希望を絶たれて生きられなくなった。対照的に仲間の病気の妻は、信仰によって安らかにあの世に旅立っていった。たとえ、インチキであっても人間は心から信じるものが見つかれば安らかなのであろうか? 妻にも見捨てられた老残の人生を送るミンチェルも、自分の神を見出して秘かに礼拝している。ミンチェルですら、信じるものが必要なのだろうか? 映画のタイトルの「我は神なり」とはミンチェルのことを指すとも考えられるが、そのミンチェルにも自分以外の神が必要だということだろうか? つまり信じるものなくしては、人間は生きられない、ということなのだろうか。

アニメを超えた表現力
 『我は神なり』は、内容はもちろん、映像表現においてもアニメとは思えない表現力をもって訴える。内容的な重層性と重みについては述べてきたが、映像も美しくリアルである。特に景色の描写が見事で、韓国の田舎町のうらわびてはいるが、自然が豊かに息づくさまを絵葉書のような美しさで表現する。人間の描き方はそれに比べると鉛筆の線がわかる素朴さだが、それだけに人物の微妙な表情が誰にもわかる。ギョンソクがミンチョルの娘を騙してセックス産業に誘い込む時、ギョンソクの視線は一瞬娘のお尻に注がれる、暗室で自死した娘を見て呆然とするミンチェルの顔と初めて憎しみと軽蔑を露わにする妻の表情が対照的に並ぶ。ダム建設のために水没を運命づけられ、荒廃する村のさびれた立て看に這うゲジゲジ虫など細かく手が込んでいる。  
 アニメは描き手の目と手を通してあらかじめ消化されたものの再表現化なので、逆に特徴が強調され、凝縮されている。そのため観客は楽に吸収できることに今回初めて気がついた。アニメが隅に置けない時代になったのである。
 日本でこの映画を実写化できたら主演男優ミンチェルは誰がいいか?と考えてみる。亡くなった役者さんでは実現不可能だが、三國連太郎、緒形拳、勝新太郎、若山富三郎、松方弘樹などの往年の名男優たちの名前が次々と浮かぶ。現役のヨーロッパ系俳優では、ハビエル・バルデムがいいかなと想像するだけでも楽しい。

参考資料:『我は神なり』プレスシート 2017年7月

©2017 J. Shimizu. All Rights Reserved. 2017. Aug.23.


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