歓びのトスカーナ(清水)

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『歓びのトスカーナ』原題La pazza gioia (英題Like Crazy )/ 製作年 2016年/ 製作国 イタリア・フランス合作/ 配給 ミドシップ/ 上映時間 116分/ オフィシャルサイトhttp://yorokobino.com/
スタッフ: 監督 パオロ・ビルツィ / 製作 マルコ・ベラルディ/ 脚本 フランチェスカ・アルキブージ, パオロ・ビルツィ/撮影 ブラダン・ラドビッチ/
キャスト: バレリア・ブルーニ・テデスキ: ベアトリーチェ/ ミカエラ・ラマッツォッティ: ドナテッラ/ バレンティーナ・カルネルッティ/ トンマーゾ・ラーニョ/ ボブ・メッシーニ/ 他




『歓びのトスカーナ』――狂へる人の歓びは常なる人の悲しみ    
  
                         清水 純子


*2人の対照的美女の逃避行
 舞台はイタリア・トスカーナ州の豊かな自然に恵まれた丘の上の精神診療施設・ヴィラ・ビオンディ。ここに収容されている2人の女性患者のベアトリーチェとドナッテラの街への逃避行を悲喜劇的視点で描く。
 ベアトリーチェは、大柄で人なつこく、陽気で開放的、行動的な性格、自称伯爵夫人である。同室に連れてこられたドナッテラは、やせ細った美少女風、体中にタトゥーを彫り、陰気、寡黙、非社交的で謎めいている。この対照的な2人の美女は、奇妙に気が合い、ある日、監視の目を逃れてバスに乗って街に飛び出す。2人が収容される以前の過去に縁があった場所や人々を訪ねることによって、この美女たちのルーツや診療施設に収容された理由と経緯が明らかになっていく。
 ベアトリーチェの実家は資産家だったが、ベアトリーチェが詐欺師まがいの男に貢いで財産を巻き上げられ、破産した。路頭に迷った母は、資産家の老人の妾になって生活しているので、舞い戻ったベアトリーチェを見ると怒って追い返す。元弁護士の愛人宅に色仕掛けで忍び込み、薬をもって眠らせた間に金品を失敬する。元ヒモの安アパートに立ち寄ると、愛人と住む男は、服役させられた恨みからベアトリーチェめがけて立ちションで応酬し、持ち金を巻き上げようとする。ドナッテラは、愛を求めて男性遍歴を繰り返し、クラブのオーナーの子供を出産する。男に無視されて絶望から赤子を抱えて入水するが、運よく母子ともに助けられる。今は裕福な家の養子になった男の子を一目見たいドナッテラは、ベアトリーチェの手引きで、垣根からその子の姿を覗き、海水浴場では歓びに満ちた会話を交わす。養父母は、心配しながらドナッテラと息子の様子を辛抱強く見守る。

*ピカレスク小説的モチーフ(主題、主張     
 ベアトリーチェとドナッテラは、自分たちのトラウマ経験を反芻するようにゆかりの地と人々を訪ね、無銭飲食、盗み、器物破壊、人間関係にひびを入れながら、わくわくする刺激的な旅を重ねる。映画は、2人の女の現実逃避の旅路をイタリアならではの楽しく、ユーモラスに、おしゃれに、そしてペーソスと苦みを加えながら、観客の感情移入を煽り、観客を巻き込みながら展開する。2人の狂った女たちの痛快な冒険談は、ギャング映画のようであり、ピカレスク小説(悪漢小説)のようでもある。ギャングもピカロ(悪漢)も、犯罪者あるいは悪漢であり、社会的に寄生的存在であり、社会からはじかれた者であり、社会的な嫌われ者である。ギャングやピカロを主人公にした物語は、反社会的であるから、必ず社会批判的、風刺的性格を内蔵する。

*ギャングやピカロとの違い
 しかし、2人の女は、ギャングにもピカロにも似て非なるものである。反社会的ということでは、ベアトリーチェもドナッテラも、ギャングやピカロに似ているが、彼女らは、常識や善悪の判断がほぼ不可能ということが決定的に異なる。ギャングやピカロは、ある程度自分たちの行為が悪だと知っているから、逃げ隠れもするし、巧妙な隠蔽工作も行うし、捕まれば刑に処せられる。しかし、2人の女は、悪が何か、その結果の罪がどういうものなのかを知る十分な能力を持たない。彼女らは、狂人ということで社会的責任を問われないから、愉快に社会的逸脱行為や犯罪行為を行える。賠償責任もないので、被害にあった人は泣き寝入り、あるいは、彼女らの監督義務を怠った第三者を訴えるという間接的な報復しかできない。
 騒動を引き起こした末、ベアトリーチェは診療施設に再収容される。放心状態で道路に飛び出して、交通事故を引き起こし、オートバイの若者を重体にしたまま、ドナッテラは、夜、収容所の門の前で倒れているところを保護される。窓からベアトリーチェが手を振って待っていた。お騒がせ美女2人が元の場所に収容されて、やれやれで映画は終わる。

日本的感覚との違い
 彼女らが刑務所に入ることはないだろう。彼女らの歓びであった旅路は、接した人々の悲しみを作りだしたとしても、彼女らの知ったことではない。彼女らはもともと社会的ストレスで正気を失ったのだから、しかたがないということなのか? 特にドナッテロは、「一人で死ぬのは寂しかったから」という理由で、赤子を道連れに川に飛び込んで死なせようとしたにもかかわらず、素性を隠して再会した息子と、笑顔で手をつないで海に潜っている。ヴィルズィ監督は、「彼女たちの側に立ちたいと強く願」(『プレスシート』「パオロ・ヴィルズィ監督インタビュー」)って作った映画だというが、日本の観客は完治したとはいえないドナッテロの側にたって理解し、ほほえましいと思うだろうか? 「悲劇にユーモアを見出してくれる映画」、「精神的高揚感や幸福感、または陽気さ」を描いた(「プレスシート」)ということだが、映画を見ている間は、美女や風景の美しさに楽しく鑑賞できるが、時間がたつにつれて疑問が噴き出す――「イタリアは進んでいる、日本ではありえない描き方!」という思いが沸く。

*イタリアの進歩的改革「バザリア法
 ヴィルズィ監督の映画が精神障害を持つ人々に対して穏健で寛容な描き方をするのは、監督の個人的見解と好みとばかりとはいえない。イタリアは、1978年に精神病院廃止の法律「バザリア法」を制定した。精神障害者が人間らしい気持ちを持ち、扱いを受けるには、自由が大切という考え方から、彼らを精神病院の隔離を解き、地域社会に戻したのである。精神科医フランコ・バザリアの信念に従って、精神病院の開設を禁止し、その代わりに地域によるケアを強化するという画期的改革であった。映画に見られるような2人の美女の歓びの逃走の周囲にとっては悲惨な結果は、起こりうる事態であり、市民もある程度覚悟しておかなければならない悲喜劇なのである。

*ヴィルズィ監督の視点は?
 精神を病む美女2人の冒険を暖かいユーモアで包んだヴィルズィ監督は、「バザリア法」に対して本当はどう感じているのだろうか? 病む人にとって、短絡的に見ればよい法律かもしれない。しかし、地域社会が彼女らの言語道断の行動を常に笑って受け入れられるかといえば、答えはノンである。監督は、ベアトリーチェもドナッテロも再収容されるラストを用意する。2人はバザリア法の目指す地域に戻っての市民生活に落第して、ぼろぼろになって施設に舞い戻る。最後の場面には、イタリアには施設利用が必要な人々が多くいるが、収容しきれない、という意味の文字が表れる。 
 陽気に楽しく狂ヘる女たちは、ピカレスク・ムーヴィーのヒロインとして活躍したが、地域社会にそのままの姿で復帰できるわけではない、彼女らにはやはりそれなりの監視と施設が必要だと映画は巧みに暗示し、訴えているのではないだろうか? ピカレスク小説がピカロ(悪者)に痛快ないたずらや悪事を許しているように見えて、その底には批判や風刺精神が込められているように、ヴィルズィ監督の批判は隠し味として機能するのだろう。


参考文献:『歓びのトスカーナ』プレスシート http:yorokobino.com. May 2017.

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